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資料室

あ行

【あ】

赤木柄の刀 1(アカギエノカタナイチ)


所有者は曾我五郎。

○知られざる日本三大仇討

 曾我兄弟をご存知でしょうか。

 四十七士の忠臣蔵、そして荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘と並ぶ、日本三大仇討のひとつでありながら曾我十郎・五郎の仇討ち物語は意外なほど一般的に知られていません。

 時代劇の素材としては馴染みの薄い、鎌倉時代初期の出来事だけに映像化の機会にはなかなか恵まれませんが、古典芸能、ことに歌舞伎の世界では知らぬ者のいない、定番の演目です。

 それでは、曾我兄弟の波乱万丈のストーリーをご紹介します。

○悲願の成就へひた走った兄弟

 軍記物『曾我物語』は鎌倉幕府の成立前後、有力武士団が群雄割拠していた東国で実際に起こった出来事が基になっています。

 時は、安元2年(1176年)。

 十郎祐成(じゅうろうすけなり、1172~93年)と五郎時致(ごろうときむね、1174~93年)の父の河津祐道(かわずすけみち)は所領争いの遺恨から、伊豆半島一帯に勢力を誇る武士団の長の工藤祐経と敵対し、刺客に殺害されました。残された妻は幼い十郎・五郎の兄弟を連れて難を逃れ、蘇我祐信の許に嫁ぎました。兄弟の姓が河津ではなく曾我なのは、母親が再婚したためです。

 元服した兄弟は、波乱万丈の試練を経て仇の工藤祐経に迫ります。かくして迎えた建久4年(1193年)、富士山の裾野において源頼朝が催した巻狩りの夜陰に乗じて、ついに悲願を成就させるのでした。兄の十郎は仇討ちの現場で斬り死にして果て、弟の五郎は捕まえられて斬首に処されました。

 以上の史実から生まれたのが『曾我物語』です。

 兄弟が成長したのは、折しも源平の争乱が繰り広げられた激動の時代でありました。かかる世相を背景に、群雄割拠の東国で逞しく生き抜きつつ腕を磨き、一途に仇討ちの決行へとひた走っていきました。その純粋な姿は時代を超えた共感を呼びこさずには居られません。
赤木柄の刀 2(アカギエノカタナニ)


○仇から贈られた名刀

 兄弟が仇討ちに立ち上がるまでの数々のエピソードのひとつに、意外なものがあります。

 五郎は11歳の時に親元を離れ、箱根別当の坊(寺社)に預けられて稚児となりました。そこで出会ったのが、頼朝の箱根参詣の供をしていた工藤祐経でありました。

 このとき、両者はお互いが仇同士とは知りません。祐経は参詣の引出物として、五郎少年に「赤木の柄に胴金入れたる刀一腰」を与えました。現在も当時のものと称される刀が箱根神社に所属されています。

 仇から刀を贈られるとは何とも皮肉な話ではありますが、17歳になった五郎は出家させられそうになったとき、迎えに来た十郎と共に坊を抜け出して元服しました。ついに仇と知った祐経への復讐に乗り出したのでした。

○現代に生きる曾我狂言

 大小の武士団の間での小競り合いの種が尽きない鎌倉幕府の草創期における東国の様相を背景とする『曾我物語』は、謡曲、幸若舞、浄瑠璃から歌舞伎へと受け継がれました。

 現代人の常識では理解しがたい行動原理に支えられた、仇討ちという行為が根底にありながらも、兄弟の悲劇は確かなリアリティーを持って観る者の胸に迫ってきます。

 十郎は美形の二枚目、五郎は剛力の巨漢として造型され、この五郎役は江戸歌舞伎の祖である初世市川団十郎が自ら創始した、荒事に格好の人物像として重んじられました。

 以来、兄は和事で弟は荒事といった明確な差別化がなされ、敵味方にもさまざまな個性的な登場人物が配された曾我狂言は、江戸三座の正月興行に欠かせない演目として現代に至っています。ちなみに能では5月の演目とされており、現代は絶えてしまった演目も、江戸時代には盛んに行われていました。

 なお、歌舞伎でもっとも有名なキャラクターの「助六」も、実は曾我狂言の影響を受けています。弟の五郎の仮の姿と設定された助六は、吉原で浮名を流す遊び人を装いながら、名刀・友切丸を探し求めているという趣向です。

【い】

今剣・薄緑 1(イマノツルギウスミドリイチ)


所有者は九郎判官義経(くろうはんがんよしつね)。

○平家追討の英雄

 源平争乱における最大の英雄といえば、やはり九郎判官義経をおいて他にありません。いわゆる「判官びいき」の語源になった、自ずと悲劇の人物に肩入れをしたくなる日本人の感性の源ともいえる、義経の華麗なる生涯をまずは振り返ってみましょう。

 義経の父・源義朝(みなもとのよしとも)は平治元年(1159年)の挙兵に失敗し、敗走半ばで平清盛の刺客に討たれて悲運の最期を遂げました。清盛の追及の手は遺児たちにまでおよび、嫡子は三男の頼朝が許されたのみで、一族は根絶やし同然にされてしまいました。

 義経が生母の常盤御前(ときわごぜん)ともども助命されたのは、幼児であるのと同時に妾腹の子、すなわち庶子だったことも無関係ではないでしょう。

 異母兄の頼朝が遠い伊豆の地へ流された後、牛若(牛若丸、九郎とも)は寺預かりの身で成長しました。そこからあまりにも有名な五条大橋での武蔵坊弁慶との決闘のエピソードへと至るのですが、一連の牛若丸伝説はあくまでも伝説の域を出るものではありません。

 義経の存在と行動が真実味を帯びてくるのは、治承4年(1180年)を迎えてからのことです。

 挙兵した頼朝は同年10月の富士川の戦いで平家に一矢報いた後、鎌倉に在って東国の武士団を平定しなくてはならない自分に代わり、奥州平泉にいた義経に平家追討戦の指揮を命じています。

 それからの華々しい活躍ぶりと悲劇は、源平の争乱を題材とする古今のフィクションでおなじみの通りです。華麗な美剣士というキャラクターは今に始まったことではなく、能の四番目物『烏帽子折(えぼしおり)』では盗賊の一団をただ一人で退治する、牛若丸の大活躍が描かれています。

 それでは、次項から魅力多き一代の英雄・九郎判官義経にまつわる名刀をご紹介していきます。
今剣・薄緑 2(イマノツルギウスミドリニ)


○大太刀だった今剣

 一代の英雄・源義経と生涯を共にした一振りとして、まずは「今剣(いまのつるぎ)」を挙げなくてはなりません。

 平家を討ち果たした英雄として京へ凱旋したのもつかの間、兄と敵対する立場となって奥州へと落ち延び、悲劇の最期を遂げるに至った義経は守り刀で己の命を絶っています。

 その時に用いられたのが、今剣という太刀です。

 元をただせば、この今剣は6尺5寸(約195㎝)もの大太刀でした。

 まだ義経が牛若丸だったころ、鞍馬山へ参詣に訪れた三条宗近(さんじょうむねちか)が祈願の証に残していった、と伝えられるものです。今剣という命名は、この大太刀を預かった鞍馬山の別当(寺社の法務を管轄する僧)によるものだといいます。

 平安時代の当時、三条宗近といえば京の都で知らぬ者のいない名工中の名工でありました。

 その宗近が鍛えた一振りとなれば、価値は計り知れません。

 長大な刀身に仕立てられたのは、あくまでも仏への奉納刀であることを意識しての結果であり、実用に供される可能性を作刀者である宗近が想定していたとは考えにくいでしょう。

 もちろん、兵法に熟達した者ならば扱うのも不可能ではありません。6尺5寸と聞くと一瞬驚きますが、柄まで含めた全長と解釈すれば、大太刀としては決してあり得ない仕様ではありません。まして馬で合戦場に携行する武具となればなおのこと、長いからといって不自然とは言えません。

 いかなる理由から今剣が牛若丸改め義経の所有するところになったかは定かではありませんが、合戦場においてか、不慮の事故ゆえか、あるいは意図して折った刀身を短刀に仕立てなおして、守り刀としていたのでしょう。

 義経の守り刀は最後の最後に至り、その名誉を守るための一振りとしての役目を見事に全うしたのです。
今剣・薄緑 3(イマノツルギウスミドリサン)


○第二の名刀・薄緑

 義経にゆかりの名刀としてはもう一振り「薄緑(うすみどり)」が挙げられます。

 五条大橋で弁慶を迎え撃ち、ものの見事に打ち負かして主従の仲となるに至ったエピソードを彩る薄緑は、源氏に代々伝わる、すなわち重代の宝刀とされた太刀と同じ名前です。

 同じ名前、という穿った言い方をせざるを得ない理由は、義経(当時は牛若)の愛用した太刀が、蜘蛛切、膝切、そして薄緑と様々な異名を冠する、源氏重代の宝刀と同じものとは言い難いからなのです。義経伝説は平家追討の幕が切って落とされてから真実味を帯びてくる半面、それ以前の出来事については伝承の域を出ていないのです。

 とはいえ、999振りもの名刀を集め、相応の目利きとなっていたはずの武蔵坊弁慶をして

 「持ち給へる太刀の真実欲しく候に、それ賜び候へ」(『義経記』)

 と言わしめたほどの出来で、続く義経の台詞として

 「是は(源氏)重代の太刀にて(渡すこと)叶ふまじ」

 とある以上、本物と認めたくなるのがやはり人情でしょう。

 短い生を駆け抜けた一代の英雄だからこそ、義経には源氏最高の宝刀がふさわしいでしょう。
岩融 1(イワトオシイチ)
所有者は武蔵坊弁慶。

 わが国の古典芸能に登場する巨漢の中でも、武蔵坊弁慶は際立って有名な一人です。

 源義経には武蔵坊なる郎従(従者)がいました。義経が自害して果てた文治5年(1189年)の衣川の合戦において、主人に殉じたと伝承されているため、実在の人物と見なされます。この武蔵坊が『源平盛衰記』『義経記』の中で義経の無二の忠臣として注目され、弁慶の呼称も用いられるに至りました。

 義経を主人公とする諸作品において、弁慶は欠くべからざる登場人物と位置づけられます。かの剣豪・宮本武蔵の名前の基になった、ともいわれるほどの強者となれば当然のことでしょう。

 まさしく天下無双と称するにふさわしい巨漢、武蔵坊弁慶とははたしてどのような人物だったのでしょうか。

○異形の子

 弁慶の人物像が詳細に語られる『義経記』によると、父は紀伊・熊野山の別当で、母は二位大納言の姫君でした。

 父の「弁せう」に強奪された姫君は懐妊しますが、どうしたことか子供が生まれてくるまでに18か月もの時を要しました。かくして誕生した赤ん坊は2~3歳児並の大きさで、髪も歯も生えそろっており、この世のものとは思えない異形を成していました。これを見た弁せうは

 「さては鬼神ござんなれ」

 と思い込み、災いを呼ぶ赤ん坊を殺してしまおうと思い立ちますが姫君の哀願で助命し、京に住む妹に預けました。このときに「鬼若」と名付けられています。

 鬼若は5歳になるころには12、13歳かと見紛うほどに成長しました。しかし6歳で疱瘡を病み、色が黒くなったまま戻らなかったのみならず、その髪は生まれたとき以上に伸びてきませんでした。髷を結えないのでは元服もできません。そこで比叡山の僧「くわん慶」に預けられ、出家することを課せられました。

 幼くして故郷と生母から遠く引き離された揚句、厄介者として寺預けにされるという理不尽な扱いを受けては、反抗したくなるのも無理はありません。暴力沙汰を繰り返した少年はついに山から追われることになりました。この時に自ら髪を剃り捨てて、弁慶と名乗ります。父「弁せう」と師「くわん慶」から一文字ずついただいての名乗りでした。
岩融 2(イワトオシニ)
○悲願、千本太刀

  自剃で僧形となった弁慶は諸国を巡って僧の修行を続けましたが、乱暴者の性癖は変わらず、播磨から追われて再び京へ出ました。ここで思い立ったのが有名な、1000本の太刀を奪う悲願でした。この太刀奪いこそが、武蔵坊弁慶のエピソードで最も世に知られたものと断言しても良いでしょう。

 太刀奪いとは、相手が大人しく要求を呑んで腰の物を置いていけば血を見ずに済みますが、さもなくば傷付けるか殺すことになります。弁慶の起こした行動は1000の真剣勝負を意味するものでもありました。1000本の太刀が集まったとき、彼は名実ともに無双の強者となるはずでした。

 その前に立ちはだかったのが牛若丸、のちの源義経でした。

 件の『義経記』では五条天神で出会い、翌日の夜に清水観音の境内にて太刀を振るって戦ったことになっています。五条大橋が出会いと決闘の場面になったのは橋弁慶伝説と言われる民間伝承が基になっており、能の四番目物および歌舞伎舞踊の『橋弁慶』に、歌舞伎と文楽の双方で演じられる『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』の五段目『五条橋』と、古典芸能には五条大橋での決闘を最大の見せ場とする作品が数多くあります。それは2人の決闘が大きな意義とインパクトを備えているからに他ありません。

 弁慶にとっての牛若丸とは、悪しきことにばかり用いていた剛力の使途を善き方向へと導いてくれた無二の恩人であり、初めて主人と仰ぐに値するだけの英雄でした。成長した牛若丸改め義経に付き従い、弁慶が源平争乱の渦中へと飛び込んでいったのも必然の結果といえるでしょう。
岩融 3(イワトオシサン)
○選び抜かれた名刀・岩融

 弁慶が愛用した薙刀が、岩融(いわとおし)です。

 弁慶の武器といえば薙刀のイメージが強いです。岩融は住吉合戦に携行したもので、刀身は3尺5寸(約105㎝)だったと伝えられています。

 ちなみに、当時の薙刀の標準は2尺5寸~3尺(約75~90㎝)の刀身に対して、柄が4~5尺(約120~150㎝)。弁慶の岩融は刀身も柄も標準より長大な、豪壮な一振りだったのでしょう。

 作刀者は三条の小鍛冶、すなわち三条宗近といわれますが、実態は定かではありません。熊野に所縁を持つことから、弁慶は山伏との関わりが深いと見なされており、その山伏との繋がりから鍛冶集団との関係性も古来より指摘されています。小鍛冶とは、平安時代の山陰地方において刃物全般を作る鍛冶の総称であり、必ずしも三条宗近その人とは一致しないのです。

 それでも、信頼するに値する武具だったのは間違いないでしょう。

 弁慶が太刀狩りで999振りまでを手中に収めたのは、それだけ膨大な数の名刀をつぶさに観察し、吟味する機会を得たことを意味します。弁慶は1000本の太刀を奪う悲願を実行に移したことで、自ずと刀剣の出来不出来を見抜く目を肥やすに至っていたはずです。その弁慶が愛用したとなれば駄作であろうはずがありません。作刀者が有名であれ無名であれ、武蔵坊弁慶の愛刀だったという一点が、凡百の太刀に勝る価値の証明といえるでしょう。
院宣の太刀 1(インセンノタチイチ)


所有者は木曾義仲(きそよしなか)。

○山育ちの猛将

 多士済々の源平争乱の中で、木曾義仲は独特の魅力を発揮してやまない人物です。木曾姓は通称で、本名は源義仲。河内源氏の嫡流を受け継ぐ為義の孫で、頼朝、義経とは従兄弟同士にあたります。

 同じ河内源氏でありながら、義仲が頼朝たちに対して割を食っている感が否めないのは、源氏武士団の本拠地である関東を遠く離れ、信濃(長野県)の山岳地帯で育てられたことと無関係ではないでしょう。

久寿元年(1154年)に生まれた義仲は、父の義賢(よしかた)を一族の内紛で殺されました。赤ん坊の義仲は乳母の夫である中原兼遠(なかはらかねとお)が所領を構える信濃へ落ち延び、成長しました。後に義仲の妻となる巴御前は、この兼遠夫婦の娘でした。

 伊豆の地へ流刑に処された頼朝、そして鞍馬寺に幽閉された義経と、ともに辛酸を舐めた従兄弟の2人に比べれば、義仲ははるかに恵まれた環境の下で成長できたと言っていいでしょう。裏を返せば、自由奔放に育ち過ぎたために上洛後は京の人々の反感を買い、一時は平家追討の最右翼に位置しながらその地位を維持できずに自滅した、という否定的な見方をされてしまいがちなのですが、青年時代の織田信長にもどこか相通じる、奔放な野性児といった人物像が義仲の最大の魅力なのも、事実ではないでしょうか。
院宣の太刀 2(インセンノタチニ)


○源氏の蜂起

 保元3年(1158年)に後白河上皇が院政を開始したのを機に、朝廷内では近臣間の対立が激化しました。

 平治元年(1159年)に勃発した平治の乱は、源義朝と平清盛の間での抗争ではなく、彼らを棟梁とする二大武士団をそれぞれ頼みとする、貴族同士の争いと見なすべきでしょう。しかし、この事件は結果として清盛の力を絶対化するきっかけとなり、貴族と武士の実質上の逆転劇を促しました。娘の徳子(後の建礼門院)を高倉天皇の妃とした清盛は、生まれた孫を皇位に就けて、朝廷の実権までも掌握するに至ったのです。

 そこで治承4年(1180年)4月に摂津源氏の源頼政と園城寺(三井寺)、興福寺など反平家派の大寺社の僧兵の力を頼みに立ち上がったのが、打倒平家を狙った後白河法皇の第2皇子・以仁王でした。

 だが、僧兵の動きを監視していた清盛に抜かりはありませんでした。先制攻撃に耐えられず敗走した頼政は切腹し、続いて以仁王も奈良へ逃れる途中に山城国(京都府南東部)の光明山の鳥居前で討ち死にして果てました。ところが、挙兵に際して以仁王が全国各地の反平家派に発した令旨の効力はまだ生きていました。
院宣の太刀 3(インセンノタチサン)


○義仲立つ

 義仲が以仁王の令旨を受けたのは、同じ治承4年の9月。祖先を同じくする一族の頼政の死から、実に半年近くが過ぎていました。

 このとき、すでに関東では従兄弟の頼朝が妻・政子の父である北条時政らを後ろ盾に兵を挙げていました。1ヶ月後、義仲も後に続いて立ち上がったわけですが、義仲と頼朝の間には同盟は無論のこと、同じ源氏一門としての信頼関係すらありませんでした。というのも義仲の父を殺し、幼い義仲を信濃へ追い払ったのは頼朝の兄・義平だからです。

 義平本人は、すでに平治の乱で父の義朝ともども敗死しています。しかし、当事者が没したからと言って容易に恨みが消えるものではありません。義仲の挙兵は決して従兄弟を助けるためのものではなかったのです。

 しかし、平家という共通の敵を前にしながら、一族同士での全面対決は避けたいと思い、義仲は寿永2年(1183年)3月に長男の義高を鎌倉へ送りました。人質として頼朝に預けたのです。時に義高は11歳でした。
院宣の太刀 4(インセンノタチヨン)


○知略と奇策と

 信濃で挙兵した義仲は慌てず、抜かりなく行動を開始しました。

 平家に味方する豪族の勢力圏を回避しつつ信濃より大軍を進めて、反平家派の多い北陸道に出て、実に3年越しで勢力の拡大に努めたのです。

 義仲の野性児めいたイメージから鑑みれば、京へいきなり攻め上ったとしてもおかしくはないでしょう。しかし、いまだ衰えを知らない平家の軍勢をまともに相手取っては、いかに強者といえども自殺行為に等しい。そこで外堀から勢力を削ぎ、平家の天下を揺るがさんと試みたのです。敵の棟梁である清盛は義仲らの挙兵の翌年、治承4年(1180年)に原因不明の熱病のために亡くなっています。それでも気を緩めることなく、義仲は京を遠くから窺うにとどまったのです。

 寿永2年(1183年)に至り、ついに平家は追討の軍勢を北陸へ差し向けました。対する義仲は同年5月、加賀と越中の国境(石川と新潟の境)に位置する俱梨伽羅峠において迎撃し、角に松明をくくりつけた牛の大群を放つという、有名な火牛作戦で平家勢を敗走させたのです。もはや行く手を遮る者はいない。義仲が満を持して上洛し、平家一門を都落ちさせたのはそれからわずか2カ月後、寿永2年7月のことでした。
院宣の太刀 5(インセンノタチゴ)


○野に生きた英雄の死

 かくして、義仲は源氏一門で初めて京に上るという栄誉に浴しました。このときに義仲は平家追討の院宣の証として、後白河法皇より一振りの太刀を授けられています。詳細は定かではありませんが、まさしく名誉の一振りというべきものであったに違いありません。

 粗暴なイメージを伴う義仲ですが、弓のみならず太刀の術にも優れており、数々の戦略を駆使して外堀から平家を追い込んでいった作戦の見事さからは、力だけが頼りの野性児というよりも、むしろ知将という印象さえ与えられます。後白河法皇より授かった太刀にしても、無益に振るうことは無かったと見なしていいでしょう。何といってもこの一振りは、信濃の山奥から勇躍出陣し、快進撃を続けてきた義仲にとっては己の功名を称える、至高の名誉の証だったに違いないのですから。

 しかし、義仲の栄光も長くは続きませんでした。朝廷のお歴々も、そして同族の源氏一門も、義仲が信頼を預けるには値しない人々だったのです。

 源氏の正統を受け継いだ頼朝こそが平家追討の第一の功労者である、と定めた朝廷の裁定に加えて、洛中で浮かれて羽目を外し過ぎた配下の武士団の振る舞いは、貴族たちの心証を著しく害してしまいました。そして、機を見計らったかの如く、頼朝は弟の範頼(のりより)と義経に軍勢を率いて上洛させました。法皇の許より遠ざけられた義仲が近江の粟津(滋賀県大津市南部)にて討たれたのは寿永3年(1184年)1月、上洛からわずか半年後のことでした。鎌倉に預けられた義高は同年4月26日、人質の宿命として幼い命を絶たれています。野に生きた英雄とその愛児が迎えた、早すぎる死でした。

【う】

打刀(ウチガタナ)
打刀は刃を下にして腰に佩く太刀に対して、刃を上にして腰に差すもので、刀身が2尺以上あるもの。

江戸時代の武士の正装とされた大小拵えなどがこれにあたる。

太刀との違いは、打刀の場合は鞘を腰に差したまま、一つの動作で抜くことができる。

そのため、反りも全体に放物線を描くようについており、いわゆる先反り(京反り)の姿になっている。

馬上で使うときは片手で抜刀し、そのまま片手で斬りつける。

太刀と同様に身の反りを生かすために、手首を利かせて斬りつけると相手に深い傷を与えることができる。

打根(ウチネ)
手で投げるように改良された矢を打根という。

弓矢を太く、短くし、鋭い小槍の穂のような鏃をつけたもので、至近距離から投擲したり、刺突することを目的とした武器。

長さはだいたい33cmから最大で66cm、太さ1cmくらい。

篦の素材は竹か樫で、弓矢と同じように3~4枚の羽を付ける。

先端につける鏃は約6~16cmくらいの槍穂状のもの。

重さは150~250g。

効率よく使用するために、上矧と筈巻の間に穴を開けて3mくらいの紐を通します。

使うときに紐の先端を手首に結んでおけば、投げてもすぐに手元に手繰り寄せまた投げられるしくみになっている。

打根は実戦では主に接近戦において使用されたもので、適当に距離がある場合はこれを投擲し、相手と接近している時には手槍の要領で突き刺す。

先が重く全体的に太く短いので、投げるとまっすぐ直線的に飛翔。

普通の矢よりも重量があるので、命中すれば相当深く刺さり、かなりの効果を発揮する。
打根 歴史(ウチネレキシ)
日本の投擲術は投石から始まったが、文献においては平安時代の頃、「平家物語」「義経記」などに石を投げる役目の武士のことを「印字の冠者」として記録されているのが、武術として登場するのが最初のものです。

投石具も使われており、戦場で用いられる武術としての位置は確立していたものと思われる。

一方世界の投擲武器の発展の過程を見ると、石弾・土弾から棍棒、投斧さらに投槍へと発展しているのが一般的。

ところが、日本では投げ棍棒やトマホークのような投斧、投槍といったものはあまり発展しなかった。

そうしたなかでわずかに投擲武器として発展したのが、1つは手裏剣であり、もう1つが打根というわけです。

打根は武術としてはあくまでも槍術の技術とされているが、用法は小型投槍というべきものである。

戦場の武技として小型の刃物類を敵に投げつけて、相手を攻撃したり、防御に用いて危難を避けるという技法は古くから存在した。

武器の通常の使い方ではなく、特徴や機能の一部を投げるという異例の用法で生かす技法である。

弓の矢も同様で、実戦において一の矢を射て、二の矢をつがえる間もなく敵が接近してきた時、矢をとっさに手で投げるということが行われた。

打根の武器としての機能は、そうしたことが基本になっている。

矢を投げるという武技はかなり古く、上古の時代から存在したと考えられている。

万葉集のなかに「投る箭遠さかりていて―――」という記述がある。

箭とは竹の矢柄のことで、どのような方法かは不明だが、この時代にすでに矢を投げる行為があったことは明らかで、更に時代が下った平安、鎌倉期にも「今昔物語集」「義経記」に手矢という呼び方がみられる。

南北朝以降になると、手突矢が行われるようになり、やがてそれが投擲専用の打根に変化したもの。

この打根が日本の投擲武器の代表格である手裏剣の出現に、大きな影響を与えたとも言われる。

このように投げ矢から発達して手突矢を経、打根という形状が完成したのは江戸時代である。

武術としては弓術の中でも、小さい矢を投げる打根術の技法として伝承されている。
打矢(ウチヤ)
打矢は江戸時代に武士が護身用の武器として用いたもの。

内矢とも書きあるいは短矢と呼ばれることもある。

要するに打根を小型簡略化した投擲武器。

長さ約21~25cmの矢柄に、10cmほどの羽、3cmくらいの鏃がついている。

使用法は、打矢本体より少し長い筒に挿入し、筒を握って振り下ろす。

そうすると、矢は勢い良く筒から放出される。

標的に的確に命中させるには技術の習得が必要だが、携帯にも便利で手軽な武器。

また、筒を使わずに手裏剣と同じように投げる場合もある。

この場合鏃を手前に向けて親指で矢を押さえるように持ち、回転させて投げる方法と、真っ直ぐ投げる方法がある。

間合いは5~6m。
馬甲(ウマヨロイ)


○構造と形状

 「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」という格言があるが、どんな強大な攻撃力を誇る騎馬軍団でも、馬を射られて落馬すれば力を失ってしまう。なので野戦では馬がよく狙われた。そのため馬も武装したのである。

 馬甲は、安土桃山時代(1573~1600年)に流行したもので、馬鎧とも書く。馬面で顔を防御し、3つの部分に分けられた鎧で首・胸・肩、さらに背と腰、尾部を覆って完全防備したものである。鎧は2㎝角の練革に金箔を押し、それを並べて鎖で編んで家地に綴じつけてある。馬面は薄鉄張懸したものか、練革製で、龍の顔をかたどっている。当時は桃山文化の虚飾的な風もあって、鎧を隠すために上に山鳥や孔雀の尾羽、熊・豹・虎皮などで覆ったりすることも行われた。鎧に金銀の飾りをつけたりして大変装飾的で美しいもので、威嚇の効果と威儀を示すものとして一部の武将は好んで用いた。

 このように一つには威容を装うことで武威を見せつけ、戦場においては矢を防ぐ効果を持つものだが、逆に馬にとっては重量が負担になり動きを鈍らせることになった。なので、鎌倉時代から南北朝時代まではもう少し活動的な馬鎧として実際に使われたが、この時代は戦闘用というよりも主に威儀的、虚飾的な目的で用いられた。

【お】

大身槍(オオミヤリ)
素槍の項でも述べたように、槍穂が約70㎝(2尺)以上あるものを大身槍穂という。その長大な穂の形状から大身槍と呼ばれているものである。文献には長いものでは約139㎝(4尺6寸)というものも記録されている。とにかく長大であるため、当然重量も増す。そのため大見槍穂にはだいたい、重量を軽減するために大きく深く樋彫りが施されている。柄は約160~200㎝程度の比較的短いものになる。

標準的な素槍の場合だと重いものでも3.5㎏程度だが、大身槍では5㎏以上になるものもある。基本的に槍は重量があっては操作上不利とされているが、それなのになぜ大身槍が戦場で用いられたかというと、一つには見た目の迫力で敵に脅威を与えられること。次に重さを利用して鎧を貫き通すほどの威力を発揮し、馬の足などを薙ぎ払ったりする効果も大きかったからである。いずれにせよ、短い穂にはない一撃必殺の刺撃力、斬撃力は乱戦ではかなり強力な武器だったことは確かであった。ただ、重量があるため個人の格闘用には不向きとされ、戦場以外ではあまり多くは使われていない。

大身槍 歴史(オオミヤリレキシ)
大身槍が戦場で使われたことは、室町時代末期から安土桃山時代の軍記などの文献によく現れている。江戸時代になり、槍術が発展していくと長い柄の素槍が流行し、柄が短くてしかも重く、素早く扱いにくい大身槍はほとんど使われなくなる。そのため、遺物として今日目にすることができる有名な大身槍はだいたいが戦国時代のものである。

有名なものとしては、「黒田節」の歌で知られる日本号の槍がある。穂の長さが79.2㎝のこの槍は、その所有者の移り変わりが数奇なところも大変興味深いものである。もともとは室町後期の正親町天皇から将軍足利義昭が拝領、それが信長から秀吉に渡り日本号の名がつけられた。それをのちに家臣の福島正則が拝領して所持していたが、あるとき主命を帯びて訪れた黒田家の家臣母里太兵衛が、大杯をみごとに飲み干してその槍を手に入れたわけである。その後、一時後藤又兵衛が所持していたという逸話も残っている。

また、歴史上の有名な出来事のなかでは、本能寺の変のときに織田信長を襲った大身槍がある。『武陰叢話』に次のように書かれている。

本能寺を急襲した明智光秀の軍勢のなかで、最後に信長に迫ったのは3人の武士であった。その1人天野源右衛門という者が、庭から後座の間に上りざま、障子越しに穂長の槍で信長の脇腹を突き刺した。その一撃で深手を負った信長は、もはやこれまでと寝所にこもり自害したということである。

大鎧 構造と性能(オオヨロイコウゾウトセイノウ)
 「大鎧」というのは、中世以降のほかの鎧に比べ大型であるというところから、形式的な区分としてこう呼ばれているものである。古くは単に鎧といわれていたが、胴丸、腹巻、なども鎧といわれたので、それと区別するために式正の鎧、著長(きせなが)などともいわれた。大鎧は古代の桂甲の小札の手法をそのまま継承し、短甲の金具廻り、脇楯(わきだて)の主要な部分を活用するという形でつくりだされた。 素材的には鉄、牛生皮と鹿なめし革、絹糸や組紐、各種の染料など、時代の工芸技術や美的感覚を総合的に結集させて製作されている。

 大鎧が完成されるとともに最盛期になったのは源平時代(1156~85年)で、戦闘形態が騎馬による弓射戦が中心の時期だった。なので防御機能もそうした状況を反映したものとして構成されている。式正鎧は、各部分の装具を持ってフル装備とするが、その基本構成は、胴、脇楯、袖、草摺(くさずり)である。更にそれに付属するものとして両手指を守る籠手(こて)、膝・足を守る臑当(すねあて)などがある。

 
大鎧 構造と性能 2(オオヨロイコウゾウトセイノウニ)


 主要部分の構造についてみると、胴は鉄板と小札(こざね)を組み合わせて作られている。胴をぐるりと囲む部分を長側(なががわ)というが、通常4段重ねで、たまに5段も見られる。長側から立ち上がって胸を覆う部分を前立拳といい、これは2段。背中の部分は後立拳といって、こちらは3段。さらに、長側の下部に連接して腰部を覆う草摺は「下がり」といういいかたをし、通常5段下がりで、脇盾も含めて4間(4つに分割)である。以上の基本構造は胴丸をはじめとする他の鎧も同様。ただし、段数、草摺の間数は鎧によって変化がある。

 胴の正面には鹿なめしの弦走革(つるばしりがわ)を貼るが、これは胸部を防護し、同時に矢を射るときに胴の小札に弦が引っ掛からないように表面を滑らかにする工夫である。

 なお、小札は鉄板を用いたが、なるべく軽くするために主要な部分以外には練革を間にはさんだり、練革だけでつくったりした。小札の一般的な形状(特に決まりはなかった)は、長さ7.6㎝、幅4㎝のカード形で、大鎧一組に2000枚前後用いたという。この小札を漆で仕上げ、織り紐か染革を使って綴るが、これを威(おど)すという。威すときの小札の重ね方は、小札の半分あるいは3分の2づつにする。前者なら全体が2枚分の厚さ、後者なら3枚分の厚さになる。厚くなれば重量も増すわけだが、軽くするか重くするかは使用者の好みである。

 胴の右の部分は、引き合わせて紐で結び留めるようになっていて隙間ができるので、その部分を防護するために頑丈な鉄板製(壺板という)の脇盾を装備する。また胴から下の大腿部にかけては四方に草摺を垂らす。袖は肩の部分から上腕部の外側に大きく翼を広げたように装着するが、これは大袖といい携帯楯の役割を果たすもの。更に鎧の右手の胸上部に矢を射こまれないよう防護するための栴檀板(せんだんのいた)を、反対の左胸上部には鳩尾板(きゅうびのいた)と呼ぶ長方形の小さな防具を結び付ける。以上のような形で騎馬・弓射に適した鎧が形成されている。
大鎧 構造と性能 3(オオヨロイコウゾウトセイノウサン)


 大鎧は騎馬戦における攻撃性を考慮し、防御としては主に太刀、弓矢に対応するものである。その利点は何と言っても「攻撃を主とする防御」という点にある。西洋の騎士の鎧は頭から足の先まで隙間なく鉄板で覆い、片手に楯、もう一方の手に剣を握るというスタイル。これは確かに防備堅固だが、活動性、機敏性に欠ける難点がある。それに対して大鎧は小札の活用によって全体に伸縮性を持たせ、栴檀など冠板の金具廻りによって隙間や急所となる部分を防護するといったふうに、馬上の戦闘のときに自由に体を回転したり、屈曲させられるような構造に作られている。そのため弓を射たり、太刀を振るう場合にも、左右の腕を自在に動かすことができる。騎馬戦闘における鎧としては、攻撃と防御の要素を見事に兼ね備えた完成された武装であるといえる。
大鎧 歴史と詳細(オオヨロイレキシトショウサイ)


 大鎧の形式は武士の実戦経験を土台として作り上げられたものである。平安時代に地方武士が台頭し、騎馬を持つ武士団が勢いを増す中で、鎧も騎射戦に対応するように改良が加えられた。こうして大鎧の初期の形態が整うのは平将門、藤原純友が反乱を起こした承平・天慶(931~946年)の頃で、それが完成するのは八幡太郎源義家が活躍した後三年の役(1083年)の頃と推定されている。

 平安末期の源平争覇期から鎌倉時代にかけて大鎧は最盛期を迎える。武士が中央に進出すると鎧兜の意匠にも貴族趣味が加味された。大鎧は一軍が率いる武将が着装するものである。戦場での活躍によって家門や名を高めるといった武門の誉れが重んじられるようになると、いよいよ豪壮華麗な衣装が鎧に表現されるようになった。こうして大鎧は防具としての実用性にプラスして、時代的な各種工芸技術、美的感覚の総合的な芸術表現となり、同時に武家の社会的地位を具現するシンボルという独特の意味を持つようになったのである。

 この最盛期といわれる時代には美術的にも優れたものがつくられた。なかでも名甲として有名なのは「源氏八領」と呼ばれる源氏重代に伝えられた大鎧である。これは源太産衣(げんたうぶぎぬ)、薄金、楯無、膝丸、八龍、澤潟(おもだか)、月数(つきかず)、日数といったもの。また、平家では唐皮、薄雲などが名甲として知られている。

 大鎧の製作は室町時代の頃になると衰退期を迎え、末期には製作されることも少なくなる。これに代わったのが胴丸、腹巻、当世具足だった。江戸時代には復古的な風潮が高まり、かなり多くの大鎧が製作されたが、名甲といえるものは生まれなかった。
大鎧 甲冑の華麗な色彩(オオヨロイカッチュウノカレイナシキサイ)


 大鎧を頂点とする鎧兜はその性能を高めると同時に、華麗な色彩において独特な美しさが追求されてきた。甲冑師たちはさまざまな金具の意匠や文様とならび、色彩についても大いに創意工夫を凝らした。その美しさは小札を綴る糸や革などの威毛(おどしげ)の色彩感覚から生まれるもので、中世の鎧はすべて威しの材質と色目によってその名称がつけられているくらいである。例えばその名称は白糸威、黒糸威、赤糸威、裾濃、村濃、沢潟、白革威、黒革威、紫革威、小桜革威といった具合に威毛の色と、取り合わせによって呼ばれている。
大鎧 着用手順(オオヨロイチャクヨウテジュン)


 鎧の着用の順序は古い時代には特に決まった作法のようなものはなかった。室町から江戸時代の頃に順序が決められたりしたが、これも武家や流派によってまちまちだった。要はスムーズになるべく短時間で着用できればいいわけで、基本的には内側から順に着用していくことになる。

① 裸になって褌(ふんどし)をしめる。次に小袖を着て中帯をしめる。小袖は出陣に際し必ず新品を使用。後世には日常用のものより丈の短めの「鎧下小袖」が考案されている。小袖の上に大口袴をはく。これは膝くらいまでの長さの袴である。

② 烏帽子をかぶる。これはもみ烏帽子といって兜をかぶるときに障りにならないように柔らかくつくられたものである。髷(まげ)は解いて乱髪にする。烏帽子をつけてから鉢巻をしめるが、一重巻、二重巻があり、二重巻きは白布8尺5寸(約257㎝)が定寸。次に手にゆがけをつける。これは革製の手袋である。

③ 鎧直垂を着て、その下に直垂袴をはき、袴の裾くくりの紐を絞って膝に結ぶ。直垂は片袖を脱いで左脇にたたむ。

④ 革足袋をはく。すねの部分に脛巾(はばき)を当て紐で結び、その上に臑当をつける。順序は左から右。さらに足に貫(つらぬき、毛沓)をはく。これは熊・猪・鹿などの毛皮を使った馬上用の短靴である。

⑤ 籠手、脇楯の順で装着する。脇楯は腰緒をめぐらせて右脇につける。この段階、つまり鎧直垂、籠手、臑当、脇楯を具足した姿を小具足姿という。鎧兜は重量があるので出陣の直前までは装着しないで、陣営内ではこれに太刀や腰刀を帯びて軽武装している。

⑥ 鎧を装着する。身分の高いものの場合、右側に着せ役、左側に介添え役がつく。一般的には胴に左右の袖を結び付け、右の胸上部に栴檀板、左に鳩尾板を高紐の根に結び付ける。そして胴を装着する。

⑦ 鎧を装着してから太刀を佩き、腰刀を差す。太刀の佩き方は太刀緒で腰に巻いて取り付けるか、あるいは腰当てを用いる。ただし腰当を用いた場合は鞘が固定され戦闘の際に邪魔になる欠点がある。なので、後世にはこれを使わない場合も多くなる。腰刀は、前側の上帯に差す。

⑧ 矢を携帯する箙(えびら)を右腰につける。箙の緒は腰にめぐらせて留めるが、この緒に予備の弦を納めた弦巻が付属しているものもある。弦巻は左前の腰の部分に下げるようにする。最後に兜をかぶる。
御貸具足(オカシグソク)


 現代でいえば、企業が従業員に作業着を貸与するといった形を、御貸具足と考えればいい。戦国時代の集団戦闘の形態は、組織化された足軽の集団である長柄槍の長柄組、弓組、鉄砲組などを生み出した。一般の武士たちは自分の武器、防具を所有していたが、足軽たちは鎧や武器類を自前でそろえる余裕はなかった。そのため、足軽を雇う武将は、一切の道具を用意してそれを貸与して武装させた。それを御貸具足、御貸刀、御貸弓、御貸槍などと呼び、それらを総称して御貸道具とも言った。また、御貸具足は足軽、雑兵、武家の奉公人だけでなく、武将に仕える下級の武士に貸し与えるものもあった。

 御貸道具は大量に用意されるものであり、簡単な鎧に粗製の武器というのが普通だった。具足は胴に籠手、脛当はなく脛巾をつけて裸足に草履をはくというスタイル。御貸具足として一般に用いられたのは、前懸(まえかけ)具足で、腹当と同様に胴の前部と両脇を防御するものだった。胴は桶側胴か仏胴形式の鉄または練革製。草摺は3~4段くらいで、下級用のものには麻布家地(裏布)に鉄か革板を綴じつけた略式のものもある。

 頭部の防具は、下級兵士は兜を用いたが、足軽はほとんど陣笠だった。その一般的な形状は、三角形の鍛鉄を矧ぎ合わせた三角山形。普通黒塗りにするが、赤や茶の漆をかける例もある。戦場では陣笠の後ろ半周に布を垂らすが、これは日よけでもあり、同時に色などの違いによって、味方同士の目印になる。また、陣笠には必ず雇い主の武将の合印が書き込まれている。

 足軽の武装は、武将が緊急のときにとっさに装備する必要最低限度の軽武装に相当するレベルである。とにかく、戦場でこまごまと軽快に動き回るのが足軽の本分であり、それに適したものが足軽の武装だともいえる。
御貸具足 歴史と詳細(オカシグソクレキシトショウサイ)


 戦国時代のいわゆる槍持ちの武士たるものは、身分に応じて家来を抱えていた。とくに戦時には臨時に足軽、奉公人を雇い入れて頭数を揃えたりしていた。当然彼らの武装は主人が提供したわけだが、その装備は次のようなものだった。防具は具足に陣笠、武器は役割によって刀、槍、弓などを持つ。携行品は兵糧袋、長手拭、縄、燧(ひうち)、水筒、股引(ももひき)、足は足袋や草履をはくこともあるが、たいていは裸足。さらに、役目に応じて斧、鳶口、鎌、なたなどを持つ。これは馬の餌を刈ったり、陣地の設営など様々な用途に使った。

 御貸刀はこしらえのごく質素なもので、長さは60.5㎝くらい。金具、塗り、柄などはすべて同じ規格でつくられている。鉄砲足軽、槍足軽などは、だいたい脇差のみだが、ときには大小2本持つこともある。なお、大量の刀を用意するにはかなりの出費になるので、資金がないと刀が不足したりする。そうしたときには手木(てぎ)と呼ぶ1mくらいの棒を、武器として持たせるというようなこともしばしばあった。

か行

【か】

兜(カブト)
○兜の変遷

 冑の歴史的な流れを概略的に見れば、弥生時代に大陸の騎馬民族の鍛鉄製の兜がその鍛鉄技術と共に日本に伝播。その影響を受けた様式として登場したのが、古代の短甲・桂甲に用いられた眉庇付冑(まびさしつきかぶと)、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)である。やがて、それらに日本的な要素が加えられ、独特な形式の兜が登場する。それが大鎧の成立と軌を一にして現れた星兜、さらに筋兜(すじかぶと)である。室町時代の当世具足の時代になると、伝統の星兜、筋兜のほかに、頭成(ずなり)兜、置き手拭形、桃形(ももなり)などの軽快でより実戦向きのものや「変わり兜」といわれる奇抜な兜が多く用いられるようになる。
兜 中世以降(カブトチュウセイイコウ)


 兜は鉢と𩊱(しころ)からなる。中世以降の兜鉢の素材は鍛鉄製、練革製、それに鍛鉄鉢を下地に紙で形成したものの3種に大別される。そのうちでも一番多いのは、やはり鍛鉄製である。

 星兜は、平安時代末期に登場した大鎧に盛んに用いられた兜で、源平合戦の武将たちがかぶっているのはほとんどこの形式。筋兜は、星兜よりも軽いことから鎌倉時代の末頃からよく用いられるようになる。南北朝以後の胴丸の兜はほとんどこの筋兜である。室町時代には筋兜の変形したものとして阿古阿陀形(あこだなり)という鉢が流行する。元来の筋兜よりも前後に膨らんで大型化し、衝撃を緩和させる性能をより高めたものである。

 室町時代の当世具足に用いられた兜は、前述したような鉢を下地にして、様々なデザインの兜が作られた。戦乱の中で武士たちは自らの勇名を誇示するために鎧はもちろん特に兜には意識を注ぎ、自分の好みを表現する変わり兜を作った。

 この時期はまた製作方法も簡略化されて、頭形(ずなり)、桃形(ももなり)、烏帽子形(えぼしなり)なども登場。桃形は南蛮兜の影響を受けたもので、鉢は4枚の鉄を打ち出して構成しており、前部中央に鎬を立て攻撃を受けても滑りやすくしているのが特徴である。また、南蛮兜の形が烏帽子に似ているところから、桃形から烏帽子形へと発展した。なかでも一番多く見られるのは頭形の鉢に革、布、紙を張り懸けにしたものである。この形式で烏帽子形、唐人笠、兜布形(ときんなり)、牛首、蝸牛、伊太良貝、鯰尾、野郎頭、梵鐘、宝塔なり、一の谷など、さまざまな形を作り出している。こうしたものは総称して「変わり兜」と呼ばれている。

 そのほかにいわゆるアイデア兜ともいえる、面白い工夫がなされた兜もみられる。たたみ兜は三角形の鍛鉄板に蝶番をつけて、自在に折りたためるようにしたもの。また、廻り兜は鉢が回転するように工夫されているもので、構造的には鉢を二重にし内側を薄くつくって中心に回転用心棒を立て、その上に外の鉢をかぶせる。敵の打撃を受けると鉢はくるくると回転し、衝撃力を吸収する。力学的にも非常に有効なものだが、あまり使われなかった。
兜 基本構造(カブトキホンコウゾウ)


 素材的には、古代から革や鉄が用いられ、その後ほとんど鉄製になるが、当世具足の頃に奇抜なデザインの兜が制作されるようになると、加工のしやすい練革が用いられるようになった。

 また、製法的な流れをみると、古代の眉庇付冑、衝角付冑は、鉄の三角板や札状の細矧(ほそはぎ)板を胴巻板で鉢を構成するというのが基本形式。その後、矧板をつなぎ留める役割の胴巻板を省き、矧板の重なる部分を鋲留して固定するという手法が工夫される。そうした手法から中世の星兜、筋兜の形式が生まれた。以後の鉄製の兜は、この星兜、筋兜を基本として、矧板の枚数、鋲(星)の数、筋の数あるいは鉢の形の変化したものがつくられる。

 なお、星兜と筋兜の区別だが、星とは鉄板を矧ぎ留める鉄鋲の飛び出した頭のことである。その星をそのまま見せて一種の装飾効果としているのを、星兜という。初期のころにはこの鉄鋲の大きいものがはやったが、見た目がいかついことから厳星(いがぼし)兜と呼ばれる。鉢の製法は、5枚から10枚くらいの細矧板を円形に矧ぎ合わせるという手法である。完全な鉢ではなく、頭頂部に丸い穴をあけ、その周辺に菊座、葵葉座という二種の金具をつけた八幡座を設けている。

 一方、筋兜というのは、星をつぶして平にし、その代わりに矧板のつなぎ目のところに縁を立てて、筋状に見えるようにして形成する。つまり、その筋の形状からその名で呼ばれているわけである。星も筋も単に装飾的というだけでなく、実践では打撃による衝撃を軽減させる効果を発揮するものでもある。
兜 立物の形と種類(カブトタテモノノカタチトシュルイ)
 立物(たてもの)は日本独特の兜の装飾物で、戦場における将兵の武威を現すものである。立物の源流は大陸の騎馬民族の冠や立物状装飾と考えられるが、その流れは定かではなく平安時代にこつ然と現れた。立物の一般的な形状は鍬形(くわがた)、天衝(てんつき)、半月で、このほか多種多様な形がある。材質は一般に金銅・銀銅製で、まれに革製、木製もある。

 源平時代の武者絵などでよく見かけるものに鍬形がある。歴史的に最も古いもので、平安時代には検非違使に随行する兵士がつけるものだったが、源平時代の頃には特に身分の高い武将に用いるものとなった。その形状は時代によって多少異なり、長鍬形、大鍬形、小鍬形、異形の鍬形などがある。なかでも勇壮な感じのする大鍬形は、総高約60㎝、上部の広がり幅が約67㎝くらいのものから総高98㎝、上部の広さ100㎝といったものも用いられた。取りつけ方は、古くは兜の鍬形台に金具で打ち留めたが、のちには鍬形台に挿入する形で着脱可能なものが工夫され、これが一般的になった。

 なお、獅子頭を兜の装飾に用いることも古くから行われた。獅子の鍬形台は絵巻物などにしばしば描かれていて、また全身獅子を前立にすることが南北朝時代まで盛んだった。ほかに竜頭もある。

 天衝はU字型で左右に長く角のように伸びている形で、それ以前の時代に流行した高角(たかづの)という形から発展して、室町時代に盛んに使われた。室町初期のものには金属板を筒状にして先端をとがらせたものもあるが、安土時代には平板製になる。直立して鍬形よりも見栄えがすることから戦国の武将に好まれ、黒田長政臣下の豪傑、後藤又兵衛は総高5尺(約150㎝)の大天衝を用いていたという。小型の物は普通前立だが、長いものは左右を分けて脇立にした。天衝の系統を引くもので室町時代以降流行した立物に、鹿角、水牛角など動物の角を模したものがある。これは威嚇と威儀的効果を狙ったものである。

 半月などのいわゆる月形も古くから用いられている立物で、満月、三日月、半月、八日月などがある。また、日輪もあるが、満月との区別は金銅製が日輪、銀銅製が満月としていたという。
兜 立物の形と種類 2(カブトタテモノノカタチトシュルイニ)


 戦国時代に入ると多種多様な当世具足に合わせて、立物も鏡、剣、扇、さらに植物の葉や花、鳥や動物、昆虫、魚貝類。その他書籍、扇子、屏風、鋸、釘、鼓筒、笙など日用品・文具・楽器、神仏、気象、加門といったものがある。立物は敵味方がまぎれぬための合印、つまり現代のロゴマークであるから武将たちは好みによっていろいろなものを作ったのである。なのでその意匠の種類はまさに博物図鑑をひっくり返したようなにぎやかなもので、中には耳、茄子、串団子など首をひねりたくなるようなものまである。
抱大筒(カカエノオオヅツ)


 大筒とは火縄銃の口径の大きいもののことである。そのうちでももっとも大きい部類のもので重量が10㎏以上あるため、撃つときに両手で抱えるようにして構えて発射することから「抱え筒」と呼ぶ。これに対して抱えずに台などに据えて打つものを「置筒」と呼ぶが、どちらも大筒に変わりはない。製造は鉄砲鍛冶によるものだが、重心を太く丈夫につくるため普通の火縄銃とは製作方法が異なり、鉄板を「タンザク張り」という技法で張り重ねてつくっている。

 大口径の銃は、外見的には太目の鉄砲という感じだが、機能も用途もほとんど大砲と同じである。ただし、使い方は鉄砲式で、発射するときに脇に抱えて撃つ方法と頬つけで照星と照門を使って狙を定めて撃つ方法とがある。命中率は、872m(8町)先の14m四方の的を狙って撃ったときに、68%であったという江戸時代の記録がある。

 この種の大筒は大砲よりも軽く、運ぶのも容易なところが利点で、攻城戦、船戦などに多く用いられた。鉄製の一貫目玉の威力は、石垣を崩したり、櫓や城門を壊したりと、破壊力はかなりのものである。ただ、榴弾は用いないので、直接的な殺傷力は、一発で一人という火縄銃と変わらない。攻城戦で用いる道具に高いところから偵察したり攻撃したりするための井楼という道具があるが、これの上に持ち上げて高いところから敵陣や城内を攻撃したのがこの大筒である。また、弾丸で城内を破ってそこから歩兵が攻め込むといった形で、効果を発揮することもある。
掛矢(カケヤ)
掛矢は樫の木などの堅い素材で作った大型の槌。

打撃部分の形状は、両端をやや細くし中央をふくらませた太鼓形。

その中心に穴を開け、そこに長さ約80cmの柄を丁字形に差し込む。

用途としては、現在でも木造建築の工事などで用いられているように、建物や土木の用具として用いられる。

軍陣では敵の攻撃を阻害する乱杭を打ち込んだり、あるいは敵の城門の扉などを打ち砕くことや武器としても用いられた。

どちらかというと陣中や攻城用としてその機能が発揮された。

武器としては地味だが、戦の道具としては息が長く大いに利用された。
掛矢 歴史(カケヤレキシ)
槌はものを打ち叩く工具の総称で、木槌や金槌などは日常的な生活道具。

平安時代の頃から大型の木槌や玄翁、つまり金槌などが戦場で用いられてきた。

特に掛矢は有名な弁慶の七つ道具の中にも入っているし、江戸時代の赤穂浪士討入のときに、吉良邸の門扉を打ち破るのにも使われている。

また玄翁は、安土桃山時代に攻城用具として、石垣を砕いたりするのに用いられたり、敵を殴り倒す雑武器としても用いられた。

名の由来は、南北朝時代の曹洞宗の僧・玄翁にちなんだもの。

下野那須町に悪霊の取り憑いた殺生石があり人に災いをなしていたのを、玄翁が金槌で石を割り悪霊を成仏させたという伝説からきている。

そこから城の石垣を割り敵の力を消滅させるという意味も生まれた。
環頭大刀 形状と用法(カントウタチケイジョウトヨウホウ)


 環頭大刀は古墳時代から奈良時代を経て、平安時代前期まで盛行した片刃の直刀である。機能的には斬ることを主目的とした武器。もともと中国大陸から渡来した形式で、「環頭」の名は把頭(つかがしら)に環状の装飾がつけられていることからそう呼ばれている。剣はもっぱら高貴な階層が所持するものであったのに対して、大刀は公家から一般兵士まで幅広く用いられた武器だった。

 古墳時代の大刀は、刀身の断面が二等辺三角形の平棟、平造が一般的。時代が下って奈良時代になると、切刃造、鋒両刃造などの形式が加わり並行して行われた。製法も数枚の鉄を合わせて鍛えるという方法がとられており、なかには焼き入れをして刃の硬度を高めたものも多くみられるなど、当時の鍛冶はすでに相当に高い鍛造技術を持っていた。

 正倉院には数多くの大刀が収蔵されているが、刀身の長さはだいたい60~90cmの範囲内で、最も一般的なタイプは全長が80cm、刀身が70cm前後というもの。これが通常実戦で用いられた大刀とみることができるだろう。ほかに、古墳出土品のなかには100cmあるいは127cmもある豪壮なものもみられるが、これは首長クラスの上級者が権威を高めるために所持したものと考えられる。

 大刀の把は、把木(つかぎ)の上に紐や綿帛(けんぱく)を巻き付けて握りやすさと強化が図られている。特に装飾的に目立つ把頭は、初期には木製や鹿角装だったが、時代が下ると金銅装や銀装の華麗なものとなり、形も 頭椎(かぶつち)、円頭、方頭、圭頭(けいとう)、鳥首など様々なものがつくられた。例えば、金銅装環頭把頭などは単龍、双龍、三葉、三塁、獅噛(ししがみ)、鳳凰などの彫刻がデザインされた立派なものである。なかには把や鞘まで文様入りの金銅版で飾った豪華なものもある。

 鍔には装飾的な食出鍔(はみだしつば)あるいは粢鍔(しとぎつば)があるがこれは儀式用で、実戦用には幅の広い丸鍔、葵鍔といった形のものが使われた。素材は鉄、金銅などが使われている。

 大刀の使用は基本的に片手で握る。片手に楯を持つ中国式の用法が大刀にはまだ伝統的に残っていたのである。そもそも断ち切る意味から「たち」と呼ばれるようになったもので、主に敵に切りつけて攻撃するが、鋭い切っ先を生かして刺撃しても威力を発揮する。
環頭大刀 歴史と詳細(カントウタチレキシトショウサイ)


 環頭大刀が中国から朝鮮半島を経由して、わが国に輸入されたのは古墳時代(紀元4~7世紀)で、その初期には九州を中心とする西日本で盛んにつくられた。それが次第に普及し、やがて関東地方まで広がっていった。その過程で外装に日本的なデザインも加えられ、把頭に独特な特徴を持った圭頭大刀、円頭大刀、頭椎大刀といったものが登場する。

 古墳時代の大刀の形式は、基本的には大陸から伝わった様式がそのまま踏襲されていた。奈良時代にもその伝統は続き、外装にしても舶来の大陸の影響を受けたものがつくられるが、その一方で大陸の様式を模造した日本固有の様式の大刀も作られるようになった。当時の武器の様子がうかがえる『東大寺献物帳』には、前者を唐大刀、後者を唐様大刀とはっきり区別して記載している。こうした奈良時代の大刀の特徴は、把頭、鍔、鞘などの外装に精巧な装飾が施されていることである。遣隋使、さらに遣唐使などの大陸との交流を背景として、用いる素材も豊富になり、しかも金銀工、玉工、漆工、皮工などの総合技術が発揮されるようになった。もちろん、こうした高級外装品は、公家など上層階級用で、一般に実戦で用いられる大刀は、「黒作大刀」など質素な外装のものだった。
金砕棒(カナサイボウ)
金砕棒は棒の打撃力を高めるために加工したり、他の物質を加えて強化処置を施したもの。

一般に金砕棒と呼ばれるものは、強化処置の方法、素材の違いによって3種類に分ける事が出来る。

1つは硬い木の棒を6角か8角に削り、角を立てることによって打撃面の衝撃度を高め、さらに手元を細く、先に向かって徐々に太く加工したもの。

棒の先の方に重心を移す事で、力学的に打撃力の向上を工夫した。

棒の長さは普通212cm前後で、約360cmという長大なものもあった。

手元の部分は50~60cmを持ちやすいように丸く削ってあり、太さは大体3.5~4cm、先端の太さは7cm前後。

重さ3~5kgの範囲。

素材は樫や櫟、柘植などの硬い材質のものを用いる。

もう1つは6角形か8角形に削った木の棒に金属を加えて強化処理をした合成棒。

強化手法にもいくつかあり、棒の打撃部分を鉄板で包んだもの、鉄の筋金を打ちつけたもの、さらに殺傷力を高めるために表面に鉄鋲を打ったもの、と言う形で強化されている。

棒の形状は前者とほとんど同じだが、鉄が加わった分重量も増してだいたい5~6kg。

棒に鉄が加えられるようになると、木に鉄を張り付ける手間を省いて鉄だけで作ってしまおうという発想も生まれた。

そこで南北朝時代末頃に登場したのが鉄製の金砕棒。

全て鉄なので寸法はやや短くなり150cmくらい、重量は5kg前後。

このように強化され威力を増した金砕棒は、単純にその重量からみても、体力のない人間ではとても扱いきれない。

これを所持するのは、体格もよく力に自信のある豪勇の者となっていた。

両手で持ち、とにかく振り回す、打ち下ろすといった方法で、敵や厚い扉などの物体を破砕する。

当たれば鎧の上からでも骨を打ち砕き、頭部を直撃されれば致命傷になる。

特に乱戦の中では10人力といえるほどの働きをし、太刀や槍といった武器よりも威力を発揮した。
金砕棒 歴史(カナサイボウレキシ)
鎌倉時代には棒が補助兵器として用いられたことは、「源平盛衰記」などで物語られているが、この時代には棒に加工を施しただけの金砕棒が用いられていた。

「義経記」には、八角棒、櫟棒、乳切木などの名前が登場しているから、平安末期から鎌倉時代初期には加工された八角棒が出現していたと考えられる。

加工された棒が更に強化された合成棒へと発展し、南北朝時代頃から金砕棒が流行しはじめた。

「太平記」には、棒、柏木棒、樫木棒、金棒、くろがねの棒、といった呼び名が登場し、棒に鉄板を伏せた金砕棒をふるって活躍する豪傑の姿が記述されている。

室町時代以降になると金棒、鉄棒とも呼ばれるようになるが、こうした呼び名は棒を鉄板で包んで強化したり、材質そのものが鉄に代わっことから呼ばれるようになったもの。

室町時代はいよいよ激化した戦乱時代だったので、棒を含めた武器類が急速に発達した。

長さも長短各種のものが登場し、強化方法も個人の体力、技術、好みによって異なった。

しかし、重量もかなりのものだから、戦闘の集団化、高速化するなかで豪傑の活躍する機会は少なくなり、金砕棒はだんだん姿を消していった。
鍵槍(カギヤリ)
 素槍の柄の蕪巻(かぶらまき)の部位に鉄製の横手を取りつけた槍を鍵槍という。鈎の形状は、片鍵、両鍵、十文字鍵、卍鍵あるいは鈎に刃や鋸刃をつけたものなどがあるが、もっとも多く用いられているのは片鍵である。両鍵には片方を直線にしたり、手元の方に曲げたものもある。槍穂も柄も長短あるが、穂は約12㎝から、長いもので70㎝くらいまであり、柄は210~364㎝の範囲である。

 鍵槍の利点は、鈎で的確に敵の槍柄を受け止め、巻き落としたりできることである。鈎が鎌槍の鎌に比べて手元に近くついているため、鎌槍よりも力が入りやすいのが特徴だ。使い方も鈎の部分で攻撃を受けたり、首や衣類を引っかけて倒したりする。鈎を十分に活用するには技術の習得が必要とされ、慣れないと使いにくいものだが、熟練すれば素槍よりも有利である。

 鍵槍は戦国時代の合戦のなかで工夫考案されたもので、機能的には鎌槍の引っ掛ける機能を強力にした形である。鉄鈎は鎌のように刃こぼれの心配もなく、取り外し可能であるため時に応じて素槍として使える利便性もある。

 戦国時代の後期頃から鍵槍が盛んに使われるようになり、関ケ原の合戦、大阪冬の陣、夏の陣の頃には、戦場で使われた槍のうち8~9割までが鍵槍であったという記録もある。鈎を引っ掛けて防壁を上ったりして、野戦では大変便利に使えたため、それだけ多く使用されたのだろう。江戸時代には鍵槍術も盛んに行なわれ、代表的流派には佐分利流、本心鏡智流、内海流などがある。

餝剣(カサダチ)


 飾剣、飾大刀とも書く。平安時代に公家が儀礼用に用いた大刀で、実戦用の武器ではない。長さが2尺6寸(約79cm)というもの。

 奈良時代に流行した唐大刀は、唐の文化が日本で花開いた豪華な外装が特徴である。平安時代になるとその外装がますます華麗になり、その一方で武器としての機能は退化して、完全に儀杖用を目的としたものとなる。それが餝剣で、これは身分が高くなるほど豪華につくられるのが普通だった。例えば、把頭には水晶の象嵌、把は鮫皮の包みこみ、四花形透彫の目貫釘、鍔は葛金(つづらかね)つきの唐鍔、鞘は花唐草の金銀螺鈿(らでん)紋様に琥珀の嵌め込みといったふうに、工芸的には中国唐朝伝来の金銀、玉工、漆、革技術などの総合的表現だった。その意味で、以後の日本の刀剣外装の手法、技術の基礎を形成した時期を代表する刀剣でもある。

【き】

菊池槍(キクチヤリ)
素槍の一種で菊池穂槍と呼ばれるのがこの槍。

その特徴は片刃造りの穂先で、短刀の茎を長くして柄の先に取り付けたような形式にある。

柄は樫材で長さは250cm前後、槍穂は20cm以内、茎は30cmほどで、基本的に穂先が短いのが一般的な菊池槍の特色。

これは実戦での便利さから来たもので、穂先を短く軽くして、柄をできるだけ長くすることで扱いやすく、有利に戦えるように工夫している。

短刀を長い柄の先につけているような形状の通り、その機能も突いたり、斬ったりすることにある。

戦場では、相手との間隔をとりながら、柄の下部寄りを両手で握って穂先の刃で斬りつけたり、振り回して薙ぎ斬ったり、あるいは突き出して刺突したりする。

刺撃の威力はそれほど強力とはいえないが、何よりもその間合いの長さ、軽便さを生かして相手の機先を制し、戦いを有利に展開する効果を発揮する武器。

菊池槍 歴史(キクチヤリレキシ)
菊池槍が登場したのは、南北朝時代の頃。

時期的に槍が盛んに使われるようになる直前に現れていることから、槍の最も初期の姿ではないかと推測されている。

その理由は、古代から刺突武器として使われてきた鉾が、平安時代になると鉾身が長く薙刀のような形式のものになる。

これは当時盛んに使われるようになっていた薙刀をまねたものだった。

さらに、その薙ぎ斬る片刃の形式が菊池槍の誕生に深く関係があると見られている。

菊池槍が登場した時期に、日本の合戦の戦法には大きな変化があった。

鎌倉末期の文永11年と弘安4年の2度にわたり、蒙古軍が襲来したが、この対外戦争が、戦術や武器の大きな変革につながった。

例えば、それ以前の日本での戦法は、源平合戦に見られるように一騎駆けが主だったが、蒙古軍に対して非常に不利だったことから、集団戦法へと変わっていく。

その新たな戦法にあった武器として、槍が登場してきた。

菊池槍は、古文書に筑紫槍という名称で記載されているが、これは主に九州の筑紫国一帯で使われていたことからそう呼ばれるようになったといわれる。

しかし、作られたのは肥後だったようだ。

南北朝時代、南朝に最後まで忠誠を尽くした菊池一族の武勇を象徴するのが筑紫槍で、それに関してはこんな逸話がある。

肥後守護職に任じられた菊池武重は、建武2年、新田義貞に従って鎌倉に向かい、箱根山で敵方の足利軍と遭遇した。

このとき武重は、1000人の部下に命じて竹竿の先に短刀を括りつけさせた。

やがて接近して来た敵をその新武器で激しく刺撃すると、見慣れぬ武器に驚き、威力に圧倒された足利軍はたちまち総崩れとなった。

この奇抜な作戦が、後の世に謳われた菊池千本槍である。

武重は肥後に帰ると刀鍛冶の延寿国村に新武器を作らせたそうで、それが筑紫槍の起源と言われている。

なお、はじめは九州地方で多く用いられていた菊池槍穂の形式は次第に全国に広まり、室町時代まで戦場で用いられた。

【く】

熊手(クマデ)
○形状と用法

 熊手は熊の爪のような鈎を3~4本まとめて、長柄の先に取りつけた武器である。古くは「耕爪(こうそう)」などとも書かれたように、元来は畑を耕す農具が武器として発展したものだ。主に攻城戦や船戦(ふないくさ)などで便利な武器として用いられ、爪を引っ掛けてものを引き寄せたり、壁をよじ登ったり、敵を引き倒したりするために使う。

 熊手の鉄製の爪は3本が一般的で、茎で柄の先端に取りつける。柄はだいたい300cm前後。末端に鉄製の石突をつける。実践的な工夫として、柄の先端を切り落とされても熊手を手元に引き戻せるように、鎖を爪の根元に取りつけたものもある。使うときには鎖を柄に蛭巻のように巻きつけて手元に伸ばして握る。

 熊手が古い記録に登場するのは平安時代(794~1184)の頃で、源平争覇期に盛んに使われ、以後、戦場の補助的な武器として活躍し続け、江戸時代には主に捕物具として利用された。また、熊手は水軍用の武器としてもよく使われた。軍船には藻外し(薙鎌)などの長柄の雑兵器とともに必ず装備され、いざ船戦になると手に手にこれを持って敵に打ちかけたのである。敵船を引き寄せたり、敵兵を引き落としたり、海に落ちた者を引っ掛けて捕らえたりと、かなり便利な武器として活躍した。

 中国では熊手の爪の形状を竜の爪に見立てて「竜咤(りゅうた)」と呼ぶ。戦闘中に熊手の柄の先を切り落とされた場合に、爪に取りつけた鎖を使って振り回し敵を攻撃するが、こうした用法の武器のことを称して竜咤という。
管槍(クダヤリ)
 槍を繰り出し繰り込む操作をよりスムーズに行なうため、可動する短い円筒を柄に装着し、刺突の動きを敏速にしたものが管槍である。要するに素槍に「管」を取りつけたものだが、一般的な形状は、柄が比較的長めでだいたい360㎝内外。槍穂は9~15㎝で、両鎬の銀杏穂がほとんどである。柄に通してある管は長さが10㎝くらいで、内径の太さは柄の一番太い部分よりも約3㎝ほど大きくしてある。

 管の素材は鉄製か銅製が主で、ほかに真鍮、練革などがあり、外側に糸または細い籐が巻かれて握り具合をよくしてある。槍先の側に鍔がつき、そこに鈎がついていて使わないときは蕪巻きに引っ掛けて留まるようになっている。そして、石突は管の内径よりも太いものを取り付けるので、管がうっかり抜け落ちるというようなことはない。

 用法は、左手で管を握って右手で柄を握り、勢いよく突き出す。使うときに紐(腕貫緒)を取りつける場合とそうでない場合があるが、つける場合は、紐を手首に巻いたり、あるいは長くして襷(たすき)に掛けたりして使う。突き出すスピードは普通の槍よりもはるかに速く、その刺撃力は鎧を貫いて突き刺さるほど強大である。また、管を使うことによって雨水や敵の血で柄が濡れても、あるいは柄に刀傷を受けても、繰り出す操作に影響がないというところも大きな利点である。

管槍 歴史(クダヤリレキシ)
 管槍が使われ始めたのは戦国中期(1500~1530)の頃と考えられているが、確かなことは分かっていない。ただ、管槍の代表的な流派に伊東流があるが、その流祖の伊東紀伊守祐忠(佐忠)が、天文・永禄(1532~69)の頃、管槍を創始したということが古文書に記録されている。このことから、この時代には管槍がかなり用いられていたことは確かなようである。

 ちなみに、伊東流の管槍の規格は、全長1丈1尺1寸(約336㎝)、両鎬の槍穂は7寸5分(約23㎝)、管の長さ3寸5分(約10㎝)というものである。管を使って繰り出すスピードの速さから、「早槍」の字を当て「くだやり」と読ませたりしている。

 江戸時代には管槍の流派も数多く登場し、武術としてもけっこう盛んに行なわれた。ただ、槍術家のなかには管のような小道具を用いることを、こざかしく邪道と考える者もいた。しかし、その操作の敏速性は槍対槍の格闘には非常に有利であることから、管槍を愛用する武士も多かったという。当時の兵法書にも、武器として戦場で使うには不向きだが、個人の格闘用の槍としてはすぐれた槍である、といったことが書かれている。

草薙の剣 1(クサナギノツルギ)
別名、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

所持者はヤマトタケル。

○記紀神話の勇者

 ヤマトタケルノミコト(日本武尊、倭建命)は、第12代景行天皇の第3皇子として諸方に派遣され、大和朝廷に従わない勢力を平定して日本武尊の名を冠せられながらも、果てしない戦いの打ち続く旅の半ばで力尽きて倒れた悲劇の勇者です。そのヤマトタケルの栄光と死をドラマティックに描いているのが「古事記」であり「日本書紀」です。

 ヤマトタケルを語る上で欠かせないのが、無二の愛刀・草薙の剣です。

 天皇の子に生まれながら、野に生きる宿命を背負わされた悲劇の勇者を守護した神剣はいつ、どのようにして世に現れたのでしょうか。

 記紀神話の勇者と神剣の物語を記します。
草薙の剣 2(クサナギノツルギ)


○神剣降臨

 草薙の剣の初名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といいます。そして最初の所有者は人ではなく、神でした。

 太陽神アマテラス(天照大神)の弟・スサノヲ(素戔嗚尊)です。

 能「大蛇」では、有名な八岐大蛇退治が描かれています。神代の英雄・スサノヲの知略と剣さばきが冴え渡る一編です。

 出雲を訪れたスサノヲは嘆き悲しむ老夫婦、脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)に出会います。聞けば、8人の娘を肥川(斐伊川)上流に棲む八岐大蛇に毎年1人ずつ生け贄に取られ、末っ子の奇稲田姫を差し出す番が来たといいます。これまでにさらわれた娘は皆、哀れにも大蛇に呑まれてしまいました。

 見過ごすことができないスサノヲは、化け物退治を決意する。彼には秘策があったのです。

 酒の大瓶を8艘の船に満載し、英雄は川上へ赴きます。その傍らには、妻として授けられた奇稲田姫の姿もありました。

 出現した八岐大蛇は酒船を襲います。瓶の中に姫の姿が映っているのを本物と見違えて、したたかに酒を呑んでしまった大蛇が泥酔した機を逃さずにスサノヲは愛刀の十握剣を一閃、見事に討ち果たしました。

 そして息絶えた八岐大蛇の尾を切り裂いてみると、一振りの剣が現れました。スサノヲはこの剣を天叢雲剣と名付けました。かつては国生みの神・イザナギの愛刀だった十握剣の刃が欠けてしまうほど強靭となれば、類い稀な神剣に違いない、そう見込んだスサノヲは姉のアマテラスに大蛇退治の顛末を報告するとともに、天叢雲剣と名付けた剣を献上しました。ちなみに天叢雲剣という名は、八岐大蛇が出現する上空には常に雲が立ち込めていたことに由来します。

 大蛇の霊気から生まれた神剣は現人神(あらひとがみ)の権威を象徴する三種の神器に加えられ、アマテラスの孫であるニニギによって再び人間界へ戻されると、伊勢神宮に祭られる運びとなりました。

 伊勢神宮はアマテラスを祭るために建立された社であり、未婚の皇女が斎宮と呼ばれる巫女として仕えるのがしきたりとされました。代々の斎宮に守られて、神剣は景行天皇の御代へともたらされます。

 ここで新たな神剣の所有者として登場したのが、ヤマトタケルです。
草薙の剣 3(クサナギノツルギ)


○勇者の危難を救う神剣

 父・景行天皇の命を受けたヤマトタケルは、有名なクマソタケル兄弟を始めとする数々の強敵との激闘を制し、ついに西方征定を成し遂げます。

 これで晴れて大和に帰れるかと思いきや、帝に東方十二神の荒ぶる神々を従えよと命じられ、またも放浪を余儀なくされました。悲嘆に暮れながらも新たな旅立ちの前にヤマトタケルが伊勢の大神に参拝したところ、斎宮を務めるおばの倭比売命(やまとひめのみこと)から、一振りの剣を授けられました。この剣こそが、天叢雲剣でした。

 倭比売命は帝の命令で九州へ赴くことになったヤマトタケルに自分の衣装を与え、甥が美少女に化けてクマソタケルを討ち果たすきっかけを作った、陰の協力者であり、実の父に使役される悲劇の英雄にとってはかけがえのない、憧憬の対象でした。

 愛するおばより授けられた神剣を佩き、ヤマトタケルは帝の新たな命令を遂行するべく東方へ赴きます。

 そこに待っていたのは、相模国の国造(くにのみやつこ)の謀略でした。朝廷より放たれたヤマトタケルの目的を察知した国造は先手を打つべく草原におびき出し、火を放ちました。

 燃え盛る炎の中で、ヤマトタケルは天叢雲剣を抜きます。

 剣で周囲の草をなぎ払って火を近づけず、収まったところで取り出したのは倭比売命が剣と一緒に授けてくれた袋でした。

 中に入っていた火打石を使って、今度はヤマトタケルが国造とその手勢に火攻めを仕掛けます。苦境を脱したヤマトタケルの知略の前に、国造一族はあえなく全滅するのでした。

 これをきっかけに、天叢雲剣は草薙の剣(草那芸剣)とも呼ばれるようになったのです。

 かくして相模を平定したヤマトタケルですが、勇者の苦難は絶えることはありませんでした。

 走水(はしりみず)の海(浦賀水道)で渡りの神の怒りを買い、荒れ狂う海の中で船が難破寸前になったとき、同船していたヤマトタケルの妻・弟橘比売(おとたちばなひめ)は自らの意思で荒海に身を投げました。

 弟橘比売の死で渡りの神の怒りは鎮まり、ヤマトタケルは危機を脱しますが、失ったものはあまりにも大きいものでした。無事に土を踏んだヤマトタケルは足柄の坂で3度「あづまはや(わが妻よ)」と嘆いたといいます。その悲痛の叫びは、吾妻の地名として今に伝えられています。
草薙の剣 4(クサナギノツルギ)


○そして国の護りに

 悲痛な思いを抑えて、ヤマトタケルの東征は続けられました。甲斐(山梨県)、信濃(長野県)と戦いの旅を経て、尾張まで辿り着いたヤマトタケルはかねてより婚約していた美夜受比売(みやずひめ)と結婚します。

 ヤマトタケルは草薙の剣を美夜受比売の許に置いたまま、伊吹山の神を素手で退治するべく勇躍出陣していきます。

 弟橘比売を失った痛手を新妻に癒され、束の間の安息を得たことで気が緩んでしまったのか、それとも若さゆえの慢心なのか。無二の守り刀を持たないまま戦いに挑んだヤマトタケルは白い猪に化身した伊吹山の神に氷雨を見舞われ、そこに含まれた邪気を浴びた結果、体の自由が利かなくなってしまいました。

 三重の能煩野までは辿り着いたものの、もはや大和まで帰る力は尽きていました。死した英雄の魂は巨大な白鳥(八尋白智鳥・やひろしろちどり)と化して舞い上がり、河内国の志機に降り立つと、再び天の彼方へと飛び去っていきました。志機に築かれたヤマトタケルの墓は、白鳥御陵(しらとりのみはか)と名付けられたといいます。

 英雄の手を離れた草薙の剣は、再び三種の神器のひとつとして、歴代天皇の神威の象徴と定められました。

 国造りの英雄を守護した神剣は、かくして国の護りとなったのです。
鎖打棒(クサリウチボウ)


  万力鎖の片方の分銅を、短い鉄棒にしたもので、一見ヌンチャクに似た形状をしている。この短い鉄棒は、鼻捻を利用したもので、棒の一端に鎖と分胴をつけることによって、威力を発揮させるように工夫した捕物道具である。短鉄棒の長さは20~30㎝の範囲内で、鎖の長さは65㎝以内。分銅の形状は、万力鎖同様に使い手の好みでいろいろな形のものが用いられる。そのうちでも一般的なのは、球形、長八角形、長四角形といった形のものである。

 用法的には、鎖と十手を兼ねた捕具、という考え方で用いられる。鎖を振り回して分胴で相手を打って動きを止め、あるいは刀に分銅鎖を絡めて引き落としたり、相手が刀を離さなければそのまま引き倒して鉄棒で打つ。また、手や腕、首などに鎖を巻き付けて引き倒し、さらに抵抗する場合は棒で殴打して気絶させたりして捕まえる。なお、江戸時代の鎖打棒の有名な流派として小田宮流がある。
鎖鎌 形状と用法(クサリガマケイジョウトヨウホウ)
 鎖を何らかの形で活用した武器を総称して「鎖物道具」と呼ぶが、そのうちでも代表格といえるのが鎖鎌である。鎌に鎖と分胴という複合的な機能を備えたものとして、日本の武器のなかでもかなりユニークな存在だ。

 鎖鎌は個人や流派がそれぞれに工夫していて、各部の形状は多岐に及んでおり、いちいち説明していては煩雑になるばかりなので、標準的とされる要素を基本に紹介していく。

 鎖鎌は基本的に鎌の刃と柄、鎖と分胴で構成されている。鎌の刃の長さは比較的短いものが多く、約12㎝が標準的。刀剣と同程度の上質の鉄で鍛造されており、農具や工具用の鎌は片切刃が主だが、鎖鎌の刃はほとんどが両切刃である。しかも、鎖の棟(背の部分)にも刃がつくられ、両側で切れるように造りつけられているものも多くみられる。単なる普通の鎌ではなく、素材も造りも上質で、強度も性能も優れた、まさに人を殺傷するための武器そのものなのである。

 柄は約54.5㎝(1尺8寸)が標準的な長さで、手元が太く鎌の付け根の方に向かって細くなり、断面は円形、楕円形、八角形など。刀の攻撃を受けとめるために鍔や鈎、護拳などの金具を取り付けることもある。

 鎖の長さは270~360㎝くらいの間が一般的。鎖鎌の鎖は「わかし付け」という強度の高い鍛接法で、継ぎ目が分からないくらいに作られていて、振り回しても、刀で斬りつけられても容易に切れることはない。鎖の1粒の長さは約2㎝。鎖の先端につける分胴は鉄製で、球形や鉾先状の細長く先がとがった形のものなどがあり、球形では直径が3.5㎝くらい、重さは75g程度である。鎖を1mくらい伸ばして早いスピードで回すだけでも相当な訓練が必要になる。

 鎖を取り付ける位置は、柄の先端部か末端部の2つの形式がある。その位置によって鎖を振り回すときの技法が多少違ってくる。さらに、先端部では鎖の背につけるのと柄の内側または外側につける場合とがあり、この場合は比較的鎌の背につける例が多いようである。
鎖鎌 形状と用法2(クサリガマケイジョウトヨウホウニ)


 鎖鎌は戦国時代に戦場で用いられたが、江戸時代になると主に個人の格闘用となる。使い方としては、片手に鎌の柄を握り、もう一方の手で分胴のついた鎖を持って振り回す。また、鎌の柄の先端の方に鎖を取り付けた形式のものは、鎌で鎖を振り回す方法もある。分胴が回る遠心力を利用して相手の急所に打ちつけるか、あるいは鎖を相手の武器にからめて奪ったり、そのまま引きよせて鎌で掻き切ったり、首に巻き付けて絞めたりする。

 江戸時代の鎖鎌術の流派はそれぞれに独自の技法を工夫しており、大別して対個人、対多人数に対応する多くの技法があった。機能的には一種の飛び道具であり、間合いの長さからいえば長柄武器でもあったので、相手にとっては非常に厄介な武器だった。しかも、その威力たるや、特に分胴の急所への一撃は相手を気絶させるなど序の口で、頭をかち割って絶命させられるくらいに強力であった。ただし技術の習得が極めて難しく、使いこなせなければ武器としての能力が極端に減少してしまうところが難点。
鎖鎌 歴史と詳細(クサリガマレキシトショウサイ)


 鎖鎌の使い手としては宮本武蔵と戦った宍戸梅軒の名がよく知られている。そもそもは『二天記』に2人が伊賀の国で対決したことが記されていることから、武蔵に関する小説などで取り上げられ、それで有名になった人物である。ただし、この時は梅軒が鎖を振り出す一瞬の間隙をついて、武蔵が短刀を手裏剣に打って胸を貫き、梅軒は破れている。要するに武蔵の勝因はとっさの機転で短刀を投げたことにあるわけで、もし刀だけで戦っていたら結果はどうなっていたかわからない。つまり、剣の達人である武蔵が、一種の奇襲作戦をとらざるを得ないほど、鎖鎌が驚異的だったということである。それはともかく、決闘の場面を盛り上げているのは、なんといってもユニークな武器である鎖鎌だ。その意味では鎖鎌を有名にしたのは武蔵であるといってもよいかもしれない。

 鎖鎌は室町時代末期の頃に登場した武器である。だれがどこで考案したのかは知るすべはないが、鎖鎌の鎌は戦場で用いられた陣鎌が原形であることは十分に考えられる。それに鎖と分胴を付けた錕飛(こんぴ)という鎖物道具が組み合わされたわけである。

 戦国時代に使用された例としては、『太閤記』の三国合戦の章のなかに、越後の武士で宇佐美兵左衛門という者が、鎖鎌を手に大いに奮戦したことが記されている。江戸時代には捕物道具として用いられ、犯人を無傷でとらえる優れた捕具としての能力も発揮した。また、武術の流派も盛んで、剣術、槍術、薙刀などと兼ねて行われていた。主な流派に一心流、直心影流、疋田陰流、天道流、戸田流、正木流などが知られている。

【け】

挂甲 構造と性能(ケイコウコウゾウトセイノウ)


 古代の甲のなかでも大陸の影響を強く受けているのがこの挂甲である。騎馬民族に好んで用いられたもので、刺突の攻撃だけでなく、弓矢の攻撃にも対応した性能を備えている。わが国では5世紀中期ころに登場し6、7世紀の古墳時代から奈良時代にかけて盛んに使われた。札鎧(ふだよろい)ともいわれる挂甲の基本形式としては、小札(こざね)を革紐や組紐で連接してつくるもの、袖無しの胴着に小札を縫いつけたものとがある。小札というのは鉄板、銅板などの材料を短冊形に切ったもので、紐を通す穴が複数あけられている。小札の大きさは大小様々で、ひとつの甲を製作するのにだいたい800枚を使用し、それを革紐か組紐で上下左右にびっしりと連接して身体を覆うようにする。

 挂甲は甲の胴から下に垂れている草摺が一体になっていて、外見的には外套のような長い形状で大腿部までを覆う。着用するときに胴から膝までを包むようにして前で引き合わせる胴丸式のものと、両脇で引き合わせにする裲襠(うちかけ)式のものとがあり、後者の方式は「うちかけ鎧」ともいわれる。機能性としての特徴は、組み合わせる材料をすべて細かく切り(小札)、紐で綴るという作り方をしているため、着用した場合、剛直で体になじまない短甲に比べ、体を自由に曲げ伸ばしできるという利点がある。

 また、重武装のときには甲のほか、首に頸鎧とそれに付属する肩鎧(後に大鎧の袖に発展)、腕に手纏(たまき=籠手)、脚部には足纏(あしまき=臑当)を装着する。この場合、全重量が30㎏近くにも達し、歩行には不便そのものだった。そうした点からも、馬上戦闘に適したものだといえる。
挂甲 歴史と詳細(ケイコウレキシトショウサイ)


 挂甲は武装埴輪にも数多く表現されているように、古代の甲として短甲とともに使用された。こうした挂甲の形式は、アジア大陸の騎馬民族系のものといわれ、チベットにもよく似たものが使われていた。日本に入ってきた挂甲は、戦闘様式の変化に対応しながら進歩改良され、奈良時代にはうちかけ式のものが多く使われた。平安時代に入ると実用と同時にうちかけ式のものが儀礼用として使われるようになる。

 短甲に比べて重量がある点にやや難があるものの、活動的で防御面にも優れ騎馬戦闘に適したその利点は、次第に改良されて大鎧・胴丸へと発展していく。小札をいくつも綴り合わせた札鎧の形式は、大鎧にそっくり継承されている。こうして大鎧・胴丸が登場すると、挂甲は実用から遠ざかり儀礼用として残される。現在でも舞楽の太平楽などで装束として使われているのがそうである。
挂甲 眉庇付冑(ケイコウマビサシツキカブト)


 挂甲に着用する冑は基本的な形式からすれば眉庇付冑である。しかし、古墳などから出土する埴輪などでは、多くが衝角付冑を用いた姿で表現されている。威儀的な眉庇付冑よりもより実践的な衝角付冑の方が好まれ、実際の戦闘においても多く使われたようである。

 眉庇付冑の形式は、挂甲と同様大陸において騎馬民族が用いた系統のもの。わが国では5世紀前半から末までの古墳時代に戦闘用に使われたもので、衝角付冑に比べて期間的には短いものである。素材は鉄で、構造としては縦矧細板鋲留、小札鋲留、横矧板鋲留という3種類の形式がある。要するに細い鉄板を縦並びか横並びに組んでいってそれを鋲で留めて堅牢な鉢をつくっている。形式的には大陸の様式に似ているが、製造法としては鉄を打ち延べして鉢をつくる大陸手法とは大きく違っている。

 形状的な特徴である眉庇は大陸の影響を受けたデザインで、中国などのものに比べ日本のものは誇張的で大きくつくられている。また、頭頂部につけられた管や受け鉢も高く装飾的になっている。古墳から出土するものには金銅装に透かし彫りを施したものも多く、身分の高いものが着用したと考えられる。実用的な衝角付冑に比べて、この眉庇付冑は威儀的な意味合いを強く持った冑であるといえる。
挂甲 綿襖甲(ケイコウメンオウコウ)


 綿襖甲は奈良時代の中国の唐から伝わった新様式の甲で、形状や機能は基本的に挂甲と同じ。名前のように素材として綿を主体にしているところが最大の特色で、綿を刺し子にして防御効果を高めている。

 挂甲は多くの小札を綴り合わせて作るので、製作に手間も費用もかかり量産がきかない。その点綿甲は軽くて安価である。性能的には、防寒にも優れ当時は防人などの装備にもよく用いられた。また、石などの打撃や弓矢の攻撃を防ぐにも十分効果があった。そのため、奈良時代には一般兵士用として盛んに用いられた。ただし、素材が有機質であるために傷みが早く、耐久性に劣るのが欠点であり、そのため現存するものはない。
毛抜形太刀 刀剣の長さと反り(ケヌキガタタチトウケンノナガサトソリ)


 刀剣の長さは棟区(むねまち)から鋒(切っ先)までの距離をいう。また、刀の反り具合というときには、棟区から鋒を結ぶ直線と刀身の棟との距離が最も長い部分を基準にする。反り具合が全体に平均していて、最も距離のある部分が中央にあるものを京反り(華表反り=とりいぞり)、棟区に近い部分で極端に反っているものを腰反りという。
毛抜形太刀 形状と用法(ケヌキガタタチケイジョウトヨウホウ)


 刀身と把が一体の共鉄造で、把の中心線に沿って細長い透し彫りが入っているところが外見的な特色である。その形状が古代の毛抜に似ているところから、後世にその名がつけられた。細身で把元に大きな反りを持つ刀身は平造で、全長が90cmくらいのものが一般的。

 古い文献には「野剣(のだち)」と記されており、平安時代中期から末期にかけて公家が主に戦場用に用いた。把の握りが外側に沿った形は、騎乗における斬撃に適したものであり、主に騎馬による戦闘のときなどに腰に佩用したものと思われる。
毛抜形太刀 歴史と詳細(ケヌキガタタチレキシトショウサイ)


 毛抜形太刀の把元に反りをつける形態は、奈良時代から関東以北に流行していた蕨手刀の影響を受けたものと考えられている。つまり、彎刀の形式ははじめ地方で発生し、やがて中央へ伝わって毛抜形太刀へと発展したという。しかし、この段階では「鎬造で茎方式、彎刀」という完成された日本刀の様式に比べ、ほぼ直刀の平造、共鉄形式ということで、鍛造技術としては水準が一段低い。それがやがて、茎が細くなって把を取り付けるようになり、刀身も鎬造の彎刀となるなど、のちの日本刀の特徴を整えていくのである。といっても、これはあくまでも推測であるが、とにかく、そうした理由で毛抜形太刀は、日本刀が完成する前段階の形式ではないかと推定されている。

 この毛抜形太刀を所有していた人物として有名なのは、関東において朝廷に反旗を翻した平将門(将門の乱=935~940)を、朝廷の命によって追討した藤原秀郷である。別名俵の藤太ともいうが、この名で登場する有名な伝説に、琵琶湖の龍女の願いによって三上山に住むむかでを退治したという伝説がある。その秀郷のものと伝わる三重県・伊勢神宮徴古館蔵の太刀は、全長が96.3cmというもの。また、平安時代に中央政権で権勢を振るった藤原一門の氏神である、奈良の春日大社にもこの太刀が宝物として収蔵されている。

【こ】

合成弓(ゴウセイキュウ)
弓矢は竹や木の弾力を利用して矢を飛ばすことによって、遠距離攻撃武器としての機能を発揮するもの。

原理的には竹、木、紐、など身近な材料で作ることができる簡単な武器といえる。

製法上その最も簡単な形式が、一本の木を削った丸木弓であるのに対して、合成弓は木と竹を組み合わせた強化弓。

また、複数の素材を用いることから複合弓とも呼ばれる。

丸木弓以来、発射する矢の威力を高めるための様々な工夫・改良がなされてきた。

その過程で日本の弓は、平安時代中期以降合成弓が中心となり、いわゆる日本弓として世界の中でも固有な発展を示した。

合成弓とひとくちに言っても、改良強化の進展の段階によっていくつかの種類がある。

要するに構造的に素材の組み合わせ方が違うもので、それぞれ伏竹弓、三枚打弓、四枚打弓、四方竹弓、弓胎弓などと呼ばれている。

丸木弓から合成弓への変化の大きな特徴の1つとして、前者が弦を張らない状態ではほぼ真っすぐか内側にやや反るのに対して、後者は逆に外側に反る。

これを裏反りというが、接着するときに逆に湾曲させることによって、弓の復元効率をより高める工夫である。

弦を張った状態を引き顔、引き絞った状態を引き成という。

古来この形によって弓の性能を判断したという。
合成弓 歴史(ゴウセイキュウレキシ)
日本の弓の固有性は短下長上の長弓という点にある。

具体的には、握るところが弓身のまんなかでなく、上から3分の2の位置にあるということで、それは上弱下強であり、射るときの張力のバランスを取ることが大変難しいということである。

それだけに日本弓は適正な操作と熟練した技術が必要とされた。

これは日本の弓道が独特な発展をして現在に至っていることの大きな要因でもある。

我が国で長弓が主に使われるようになったのは、縄文晩期から弥生時代初めの頃と考えられている。

その後、西暦3世紀頃に成立した中国の魏志倭人伝に、当時の日本人が使っていた弓の特徴について「木弓短下長上」と記述されている。

少なくとも弥生時代晩期にはこの様式は普及していたと考えられる。

弥生時代以降も弓矢の性能や用法に多少の工夫改良があったが、平安時代中期までは基本的に単一材の長弓の丸木弓だった。

また、戦闘においては既に古墳時代から主力武器として盛んに用いられていたことが、日本書紀、古事記などに記されている。

また、当時の戦闘の様子や弓矢と剣で武装した英雄・武人の姿からも、戦場の重要な武器であったことが伺える。

弓矢の歴史でも変革期となるのが、平安末期から南北朝時代にかけてである。

社会的な背景としてこの時期には武士が登場し、戦闘形態も徒歩戦から弓馬を中心にした戦闘形態に変わり、そのなかで伏竹弓、三枚打弓など強力な弓が登場した。

それに伴って大きくて威力のある矢も工夫され、ますます戦場の主武器として重要な位置を占めるようになる。

具体的に言えば、そうした変革の大きな要因となったのは、11世紀中頃の前九年の役や後三年の役、さらに、12世紀の保元の乱や平治の乱という戦乱だった。

それは同時に公家と武士、さらに武士の源流である源・平両氏の争覇興亡の繰り返しである。

そのなかで武器として弓矢が盛んに用いられ、藤原秀卿、八幡太郎義家、源為朝など弓射の技術にすぐれた名将たちが続々と登場してきた。

今日我々が目にする絵巻物などで、当時の戦場を飾っているのが装飾的な滋籘弓であり、この弓によって源平の合戦はいよいよ華やかなものになっている。
小柄(コズカ)
 小柄とは刀装具の一種で、鍔刀か鞘巻の刀(糸や革などで鞘を巻き、漆塗りした腰刀のこと)に装着するものである。こうした形は古墳時代から行われていた。そもそも小柄の意味は刀身の短い刀剣の柄のことであるが、短小な刃を柄に一体化させる状態から小柄と呼ぶようになったもので、その機能は現代のナイフと同じである。小柄は室町時代以来、脇差の一般的な装具とされてきた。

小烏の名刀 1(コガラスノメイトウイチ)


所有者は時次郎。

○新内節に名刀

 江戸浄瑠璃のひとう、新内節(しんないぶし)は男女の仲の機微を唄い、心中を流行らせたという理由から一時は幕府に禁じられたことがあります。

 その新内節に名刀が出てくるといえば、驚かれるでしょう。

 敦賀若狭掾(つるがわかさのじょう)が安永元年(1772年)に発表した『明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)』は、吉原遊女の浦里と分限者の息子の時次郎の悲恋を描いて人気を博した、数ある新内節の中でも際立って知名度の高い作品です。

 発表される3年前、明和6年(1769年)7月に起きた実際の心中事件を基に描かれているものの、主人公の若い2人はしばしば絶望的な状況に追いやられながらも安易には死を選びません。そして安政4年(1857年)に富士松魯中が発表した続編『明烏後真夢(あけがらすのちのまさゆめ)』では晴れて夫婦となる結末を迎えますが、ここで重要な役割を果たすのが名刀・小烏丸(作中では小烏の名刀)です。
小烏の名刀 2(コガラスノメイトウニ)


○名刀の霊験が救った男女の命

 金の工面が付かなくなった時次郎は逢世が叶わなくなり、遊廓の浦里の部屋に忍んで暮らそうとします。しかしすぐに見つかり、時次郎は表へ叩き出されてしまいます。残った浦里は店の主人の折檻を受け、協力者である禿(かむろ、遊女の身の回りの世話をする少女)のみどりとともに、庭の古木に縛り付けられてしまいました。そこに忍びこんだ時次郎は浦里とみどりを助け出し、叔父が住職を務める深川の慈眼寺まで落ち延びますが、もはや逃げ切れないと諦め、墓地の柳で首を吊ってしまいます。ぎりぎりまで生きようとしていた2人も、ついに覚悟を決めざるを得ないところまで追いつめられたのでした。

 そこで俄然と注目されるのが、時次郎の家に代々伝わる家宝・小烏の名刀です。心中の報を伝えられた時次郎の家から急遽運ばれた名刀は見事に霊験を発揮し、2人は息を吹き返したのでした。

 新内節とは、いわば流行歌です。最大限にわかりやすく、聞きやすくなくては意味がありません。それに、いかに刀剣が現代よりも遥かに身近だった時代とはいえ、生半可な「名刀」では誰もが皆知っているというわけにはいかないし、死者を生き返らせるという設定にも、説得力が出てきません。

 その点、小烏の名刀は申し分がありません。生半可な「名刀」の類ではなく、平家に代々伝わる家宝、すなわち重宝だったのです。
小烏の名刀 3(コガラスノメイトウサン)


○平家の重宝

 もちろん、完全な作りごとの『明烏夢泡雪』『明烏後真夢』に出てくるように分限者の商人が所有するはずもなく、江戸時代には幕府の有職故実を勤める伊勢家が秘蔵していました。

 歴代の徳川将軍への上覧など、限られた機会にしか持ち出されることがなかった小烏丸でしたが、その仕様については比較的、早い段階から判明していました。伊勢貞丈(1717~84年)が当主だったころの、老中首座・松平定信の命で編纂された『集古十種』に、小烏丸が描き写されています。

 刀身は実測62.6㎝、反り1.2㎝。

 剣尖から刀身の中央部分までが諸刃の、小烏造と呼ばれる独特の外見を成していて、それがまた美しいのです。

 この小烏丸、本をただせば桓武天皇(在位781~806年)の御剣でした。

 故に、桓武天皇の曾孫に当たる高望王を祖とする平家の重宝とされても取り立てて違和感はないのですが、新築されて間もない平安京の南殿上空に飛来した、全長8尺(約240㎝)の巨大な烏がもたらしたという由来は、いささか話が大きすぎる気がします。

 洋の東西を問わず、宝物にはその価値を否が応にも高めずには置かない伝説・伝承の類が併せて伝えられるのが常ですが、どうして小烏丸の場合には、このような由来が作られたのでしょうか。
小烏の名刀 4(コガラスノメイトウヨン)


○霊験の由来

 平家にとっての小烏丸は、単なる武具としての太刀ではありませんでした。天皇の血を引く名家の証として、数ある武士団の中から抜きん出るためにも実力だけではなく、権威が必要でした。

 その権威を揺るぎないものとするために、小烏丸には現世を超えた神威が必要だったのです。

 太刀を運んできた烏は、単に巨大なだけの怪鳥ではありません。古来より神鳥として名高い、八咫烏でした。平家の象徴である小烏丸の権威を高めるには、まさに格好の贈り主だったと言えるでしょう。ちなみに、この太刀を小烏丸と命名したのは桓武天皇その人とされています。
小鍛冶宗近(小狐丸) 1(コカジムネチカコギツネマルイチ)


所有者は三条宗近(さんじょうむねちか)。

○狐の相槌で鍛えた名刀

 能の五番目物『小鍛冶』に登場する小鍛冶(三条)宗近は、平安時代の初期に実在した有名刀工です。

 一条天皇より作刀を命じられることから物語が始まるのも、宗近という刀工の名声が、生前から高かった史実に裏付けられています。

 とはいえ、いかなる名工といえども、いや、確かな実力を備えていればこそ、御剣を手掛けるとなれば悩むのは当然でした。刀工として比類なき名誉に浴する絶好の機会であると同時に、ひとたび失敗すれば名声は地に堕ち、命取りにもなりかねません。悩む宗近は伏見へ出かけ、氏神の稲荷明神に祈誓して心機を練り直すことにしました。

 すると、1人の気高い童子が現れて、相槌と頼むに値する弟子がいないが為に自信が持てずにいた宗近に、かの草薙の剣をはじめとする刀剣の素晴らしさを滔々と語り聞かせたうえで、力を貸そうと申し出ました。

 かくして不思議な童子は名工・三条宗近の相槌を握ることになり、見事な技量で役目を全うしました。

 宗近は鍛え上げた太刀の茎表(なかごおもて)に「小鍛冶宗近」、そして裏に「小狐」と銘を切りました。すでに、この童子が稲荷明神の遣わした狐の化身ではないだろうかと察しをつけていたのです。

 すると、童子は自分が稲荷明神であることを明かし、太刀の出来栄えを褒め称えると雲に乗り、稲荷山へと飛び去っていきました。

 以上が『小鍛冶』のあらましです。
小鍛冶宗近(小狐丸) 2(コカジムネチカコギツネマルニ)
○小鍛冶の異名

 能以外にまで裾野を広げて見ても、刀工本人が登場する古典芸能は極めて少数です。この『小鍛冶』を除いては、『新薄雪物語(しんうすゆきものがたり)』ぐらいのものでしょう。それだけに、三条宗近は実在の名工であるというのみならず、架空の物語の設定上においても確かな存在感を示すだけの傑物だったということになります。

 その宗近が、作中において「小鍛冶」と称される理由については諸説が唱えられていますが、一説によると当時の山陰地方では刃物全般を手掛けるものを小鍛冶屋、素材となる鋼を鍛える製鉄師を大鍛冶屋と呼んで区別していた習慣から来ているのではないか、といわれています。そうすると、宗近が「小鍛冶」と呼ばれていたとしても不自然ではないでしょう。山陰ならぬ京の都では有り得ない現象、という解釈もできますが、まだ刀鍛冶の絶対数がそう多くなかったはずの平安の世に在って、宗近が帝の御下命を受けるほどに洛中でそれと知られた名工だったという事実を考え合わせれば、一種の尊敬の念を持って「小鍛冶」の呼称を冠せられていたとしても、決しておかしくはないでしょう。
小鍛冶宗近(小狐丸) 3(コカジムネチカコギツネマルサン)
○名刀中の名刀、三日月宗近

 話を『小鍛冶』に戻しましょう。

 稲荷明神御自らの相槌のおかげで見事に鍛え上げられたたちは「小狐丸」と称されることになりました。宗近の作として確かに実在したとされていますが、平安時代以降に行方不明となり、詳細は伝えられていません。

 もう一振り、宗近の作なのかどうかは定かではありませんが、藤原忠平より帝へ雷除として献上され、後に関白の九条家に下賜された刀に小狐丸なる太刀が存在したといいます。稲荷明神が穀物の生育を助ける農耕神であることの由来する命名と見なされますが、この小狐丸こそが『小鍛冶』に取り上げられたものと同一だったとすれば、興味深いものです。物語の最後に雲を呼んで去っていく稲荷明神は、まさに雷雲を操って雨を呼び、稲妻をも制御することができる存在だからです。

 さて、それでは現存する宗近の太刀をご紹介します。

 通称は「三日月宗近」。名刀中の名刀と呼ばれる、宗近作の逸品です。

 刀身は実測で80㎝、反り2.7㎝。

 細身で反りがかなり強く、江戸時代の打刀を見慣れた目には、刀身そのものが三日月のようにも映るのですが、通称の真の由来は刃文にこそ見出されます。この太刀の刃文は上半分が二重三重に重なり、下半分(打のけ)が見事な三日月になっています。これは宗近の作刀のすべてに共通する作風というわけではありません。宗近本来の刃文は直刃仕立て(すぐはじたて)に小丁子乱(こちょうじみだれ)が混じるというもので、三日月の刃文はこの一振りに独特というから、まさに計り知れない価値を持ちます。

 稀代の名工が丹精をこめた結果、図らずも生まれた名刀中の名刀、それが三日月宗近なのです。
笄(コウガイ)
 笄とは本来、頭髪の乱れを整えたりかゆみをかいたりする日用品で、のちには婦人の装飾品ともされたものである。また、戦場で討ち取った敵の首につける首札に穴をあけるときなどにも用いられた。通常小柄・笄と並び称されるように、装着の方法はだいたい同じで、鞘に小柄櫃(こずかひつ)、笄櫃という装置をつけてそこに収める。いずれも長さは18㎝ほどのものである。

笄 手裏剣(コウガイシュリケン)
 笄(こうがい)とは武士がびん髪をかきあげるための用具で、腰刀の鞘の装置に携帯したものである。小柄状で身が細く、刃はついていない。時代劇で武士が刀の鞘から取り出して、素早く敵に投げつけたりするのがこれである。緊急のときに笄を手裏剣代わりに打つことはよく行われたようである。それを技術として確立し流儀としているものに正雪流がある。その流祖は武芸を究めた兵法家であった由井正雪である。

 笄手裏剣は、鉄扇道にて販売しております。
錕平 構造と用途(コンペイコウゾウトヨウト)


 鎖の両端に分銅と指にはめられるような鉄輪をつけた捕具である。江戸時代に考案されたもので、もともとは相手に気づかれぬように携帯し、奇襲攻撃にも使える隠し武器として用いられた。

 鎖の長さは120~130㎝くらいで、分銅の形状は普通切子玉形(20面ダイスのような形)が多く、重量はだいたい11g前後。分銅の反対側の手に握るほうの端には、刺が2つついた角手(かくて)のような機能を持つ鉄輪がついている。その鎖に花鍵付の鉄筒を通してあるところが大きな特徴である。鉄筒の長さは9~13㎝くらい。筒の先の左右についている花鍵(はなかぎ)は、要するに刀の鍔の役目をするもので、筒を握る手指を保護するために手前に曲げた形で取り付けられている。鉄筒は空洞になっていて中を鎖が自由自在に動き、これによって鎖の長さを調節する。

 使うときには、まず鉄輪を左手の中指にはめるが、このとき刺を手のひらに向けるようにする。次に右手で鉄筒を握るが、鉄筒には握りやすいように籐や紐が巻きつけてある。そうして、敵と対峙した時には、間合いを計りながら鉄筒で鎖の長さを調節し、分銅を振り回して打ちつける。ほかにも、効果的な用法は色々とあり、敵の首や手足に巻き付けて引き倒したり、武器に絡めて引き落としたり、さらに、敵を手元に引き寄せてからは、刺のついた角手が有効である。敵の手首や首根っこをむんずとつかんで刺を肉に食い込ませ、相手が苦痛で一瞬ひるんだ隙に取り押さえる。また、刺を外に向けて指にはめ、拳として使っても有効である。実際の捕物では、十手と併用して使うことも多かったようである。
錕飛(コンピ)


 棍飛、魂飛とも書く。万力鎖に似た形状をしていて、鎖の長さ、分銅の大きさや重量などは錕平よりも比較的大型である。南北朝(1336~92年)の頃からその名が登場しており、鎖物武器のうちではもっとも古くから使用されてきたもの。錕平はこれを小型化して工夫を加えている。

 鎖は長さ約100~400㎝の間だが、一般的には200㎝くらいのものが多く使われた。鎖のいっパ鵜の箸に分銅をつけ、もう一方の端には握ったときに手からすり抜けないように、指をかける鉄輪、または握りやすいような鉄板、山形の平板鉄片などが取り付けられている。分銅の形は球形、長四角、八角形、切子玉型など形も長さもいろいろで、重量はおよそ75~220gの範囲。

 使い方は、鉄輪を指に通して鎖を持つか、鉄板の金具をつけている場合は、その金具を握り人差し指と中指の間から鎖を出すようにする。用法的には錕平とほぼ同じだが、鎖を長くした分攻撃の間合いが遠くなり、分銅が大きいだけ相手に与える衝撃も大きくなる。
黒作大刀(コクサクタチ)


 黒作大刀は奈良時代(710~784)の実戦用の大刀で、同時代の唐大刀や唐様大刀が金銀を使った豪華な外装でつくられていたのに対して、この大刀の外装は、金具は銅か鉄、鞘は黒漆で塗ってあるだけの質素なもの。「黒作」の名はその外見からつけられたもので、黒漆の大刀ともいわれる。

 刀身は切刃造の頑丈な直刀で、全長がだいたい80cm、刀身の長さは65cmくらいが一般的。把は18cm前後で把木に糸、紐、革などをきつく巻き付け、鞘は木製で、腰に吊り下げる革紐を通すための足金物がついている。

さ行

【さ】

三種の神器(サンシュノジンギ)
 

 八咫鏡(やたのかがみ)、八尺勾玉(やさかのまがたま)、そして草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を総称して三種の神器と呼びます。

 天皇の位を証明する印、すなわち神璽(しんじ)である三種の神器は、天孫降臨神話の主人公・ニニギがアマテラスより託された宝物です。

 この鏡と勾玉はもともと、弟のスサノヲの乱暴狼藉を恐れるあまり太陽神のアマテラスが天の岩戸に隠れてしまったとき、彼女の心を慰め、世界に光を取り戻すべく作られた祭具でした。

 鍛冶神のアマツマラ(アメノマヒトツ)と鏡造りの神イシコリドメが腕を振るって作り上げた青銅の八咫鏡は、太陽神として農耕を守護するアマテラスの魂を宿した御魂代(みたましろ)と位置づけられ、本来は農業国であるわが国の政を司る者の統治権の象徴とされました。

 玉造の神タマノオヤが生み出した八尺勾玉は、三種の神器の中で生産性を象徴しています。玉とは太陽の恵みを受けて収穫された稲種の収蔵する倉の神の御魂代であり、この八尺勾玉もまた、同じ性格を帯びた存在と見なされます。

 残る草薙の剣は、治国に欠かせない軍事力の象徴です。神々の世界である高天原(たかまがはら)で乱暴狼藉を働き、姉のアマテラスの心を痛めたスサノヲですが、八岐大蛇(やまたのおろち)退治をはじめとする数々の手柄を地上世界で立ててきた、英雄としての一面も無視できません。そのスサノヲが退治した大蛇の尾から取り出した宝剣だけに、計り知れない武威を秘めた、三種の神器に欠かせない存在なのです。
刺叉(サスマタ)


 刺叉というのは長い柄の先端に大きな雁又状の鏃のような金具を取り付けたものである。独特な雁又状金具の形状が楽器の琴の糸を支える琴柱に似ているところから、琴柱棒(ことじぼう)の呼び名もある。

 金具は鉄製で鉄板をやや厚くした程度の平たい形状。その両面の中心に沿って鎬がつけられているが、刃はつけられていない。これは雁又で犯人の首などを押さえつけるときに傷つけないためである。長さは25~30㎝、幅は25㎝前後。茎(なかご)形式で、柄に差しこんで目釘で留める。

 刺叉が登場するのは室町時代のことだが、袖搦、突棒と同様に中国の武器を参考にして考案されたものである。当時は琴柱と呼ばれ、主に警固具として用いられたが、江戸時代になると捕具として使われた。江戸時代の記録に「ひねりことじ」といった表現があるように、その用法は犯人の咽喉輪(のどわ)や腕、足などを雁又に挟んで塀や建物の壁に押し付け、自由を奪う。刺叉を何本も用いて相手を取り囲み押さえつければ、犯人はほとんど動けなくなってしまう。

【し】

十手(ジッテ)
 十手はテレビの捕物帖などで、同心や岡っ引などがこれを手にして犯人を追ったりしているので、大人から子供まで誰でも知っている捕物道具である。

 実際に江戸時代においても、捕物必携の捕具としてもっとも多く使われたものである。十手は他に、術手、実手、十挺、十丁、手棒、鉄幹、鉄挺、鉄梯、賢手(さかて)など、古文書ではさまざまな文字が使われている。おそらく十手の機能や用法などから、適当と思える字を当てたと考えられる。

 「十手」という呼び名の由来にしても、その用法に10種あるからとか、捕方10人分の働きがあるから、あるいはまた十字型をしているから、という具合にいろいろと起源が上げられているが、これという定説はない。これだけポピュラーな捕具なのに、そういう点がはっきりしないというのも十手の面白いところである。

 十手は室町時代中期頃から警防具として使用されてきたもので、その発生源としては鼻捻、金鞭、鉄刀などから工夫され、発展したものではないかと考えられている。また、一説には中国から伝来したものともいわれ、『近世事物考』には明の帰化人陳元贇(ちんげんいん)という人物が、柔術、捕手術とともに十手とその用法を伝え、それを徳川幕府が採用して犯罪者を逮捕する用具として定着したとされている。ただし、この説もやはり確かかどうかは不明である。

 十手の形状は、長さがだいたい30~60㎝の範囲。素材は短い木の棒、あるいは鉄か真鍮の棒。機能的な工夫として手に握る部分の上に鉄の鈎をつけている。十手の棒身はだいたいまっすぐで、その断面が円形、八角形、六角形、五角型、四角形といった形状。太さは全体が一定、先細り、先太、真ん中が太く両端が細くなっているものなどがある。

 十手のポピュラーなイメージは、太刀もぎ鈎をつけたものということになるが、そのほかに鍔をつけたもの、鈎と鍔の両方をつけたもの、さらになにもつけない「なえし」とよばれるものがある。
十手 与力(ジッテヨリキ)
 町方与力は普段十手を携行しないが、火事場などに出役するときには火事装束とともに持つ十手も決まっており、長さ27㎝~30㎝くらいの真鍮銀流しの十手を指揮用として用いた。形状的には丸棒で、太さは約1.5㎝。握柄の末端に回転する紐付環が取りつけてあるのはどの十手にも共通したもので、与力のものはそこに朱色の房紐が通してある。ほかに、打撃の効果を高めるために棒身を六角形にしたもの、鍔だけで鈎のついていない丸棒身のものなども用いていた。

十手 使い方(ジッテツカイカタ)
 十手は、本来防御用の武器だが、時に応じて攻撃用としても使っていた。わずか1尺5寸前後の長さの武器では、一見したところあまり攻撃にも防御にも役に立ちそうには思えないが、実際には徳川幕府の警察権力がそこに厳然たる威光として象徴されており、それが犯罪者に対する無言の圧力として威力を発揮していた。もちろん、その用法によって捕具としての威力も十分に備えており、江戸時代には数十の流派が生まれてその技を磨いていた。

十手術の用法には、多種多様な技術があり、とても簡単には紹介しきれないので、ここではごく基本的な用法について紹介する。まず、十手の持ち方は鈎との間が指2本分くらい空くようにして柄を握る。鈎にぴったりつけて握ると、刀の刃を受けたときに手指を斬られる恐れがあるからである。さらに、腕を前方に水平に伸ばし、鈎が下向きに成ように持つ。こうして姿勢を低くして犯人に近づくのである。そして、犯人が刀で切りかかってきたら、鈎で受けてまず防御し、次の一瞬に隙を突いて相手の懐に飛びこみ、攻撃する。

 攻撃で相手に打つときには、刀などそれ自体の重さがある武器とは違った要領が必要である。腕を十分に伸ばして振り、遠心力を利用して打ちつける。相手の振り回す刀をかわして、そのふところに飛び込んで攻撃する時には、まず利き腕をねらい打って利かなくさせ、それで捕縄をかけるのである。なお、十手を片手で持ち、もう片方の手で鎖物捕具を使ったり、あるいは目つぶしを使ったりすることもできる。とにかく十手は防御にも攻撃にも非常に便利な武器である。

十手 八州取締出役(ジッテハッシュウトリシマリデヤク)
 八州取締出役の同心・手代の持つ十手は、長さ28~30㎝くらいのもので、紐には紫色か浅黄色の房をつけていた。形状は丸棒身に銀流しで、外見的には江戸町方同心の十手と同じだが、同心の十手は全体が真鍮製であるのに対して、八州廻りのものは棒身が鍛鉄、柄が真鍮板で巻いてあり、携帯するときには大小と並べて腰に差していた。

 実際の捕物では、地元の博徒の顔役などがいわゆる二足のわらじを履いて捕物を手伝ったり、「番太」といわれる下層民が集められて使役される。そうした八州廻りの配下の小者や番太などが持つ十手は、楠流十手といって長さ1尺8寸(約54㎝)ほどもある長めのもので、長さ約60㎝の紐に赤い房がつけられていた。朱房というと町方与力や同心と同じ色だが、こちらは階級の低いものを示している。

十手 同心(ジッテドウシン)
 町方同心の用いる十手には、基本的に2種類ある。日常の巡回などに持って歩く十手には、一般的に約27㎝(9寸)のごく短い真鍮製銀流しの十手で、真ん中がやや太く手元と先端が細くなった形状の丸棒型。握柄には唐草模様が刻まれている。

 巡回用のものが短いのは、懐などに入れて携行するために便利なように工夫がされている。一方、捕物に出役するときには、長さ約63㎝(2尺1寸)ほどの長十手を用いる。これは鋼鉄製六角棒身で、いってみれば実戦用の十手であり、腰の長脇差に並べて差して持ち歩く。こうした十手には基本的には、奉行所から支給される官給品だが、そのほかに私物として作ったものなどを使うことも多く、それらは長さ、太さ、鈎の形など、千差万別である。

 与力と同じく同心の十手にも長さ約45~54㎝の紐に、約15㎝前後の朱房がついている。房紐は携行するときには鈎にからめて巻いておくのが決りで、巻き方にも一定の様式があった。房紐は二重になっていて全長が60㎝、房は13㎝くらいである。実際の捕物では房紐を鈎からほどき、二重になった紐の端に十手を握る手の小指を掛け、手にぐるっと二巻ほどして十手を握る。こうすれば格闘していて十手を取り落としたりしても、すぐに持ち直せるのである。

十手 岡っ引・目明し(ジッテオカッピキメアカシ)
 本来、岡っ引、目明し、その配下の「下っ引」といわれる存在は、町奉行の正式な役職ではないので、原則として勝手に十手や捕縄は持てない。ただし、同心の指示によって一緒について歩く時には持っていく。その場合、岡っ引や下っ引の持つ十手は、奉行所に備え付けの官給品で、前述したように1尺2、3寸の規格の短鉄製丸棒に鈎のついたものである。

 特に彼等が使う十手は「坊主十手」といい、与力や同心との階級的な区別を明確にするために、原則として房をつけることは禁じられていた。また、規則として貸し出したものはいちいち返却しなければならないが、面倒臭いことを嫌うのは世の常である。テレビの捕物帳などに出てくる街の顔役的な岡っ引などは、私物を作って携帯することが多かったようで、当然、お上の御用をたてにして十手を悪用する弊害も生んだ。

 なお、房紐は禁止されていたが、捕物の際には手紐を付けることが許されていたので、そのときには捕縄を握柄に巻きつけて、余った部分を房状に結んで携帯していた。犯人に対したときは、結び目を口にくわえてほどき、十手を投げつけると紐がほどけながら飛び、犯人の体に絡みつくということである。また、紐を握って十手を分銅のように振り回して投げつけることも可能である。

十手 火付盗賊改(ジッテヒツケトウゾクアラタメ)
 取り締まりの対象が強盗犯人や盗賊、無宿者、浪人者など、比較的凶悪で危険性の高い者が多いことから、火付盗賊改方の用いる十手は、やや大振りで太いものが使われていた。短いものは8寸(約25㎝)くらいから長いものは1尺5寸(約45.5㎝)くらいまである。

 この十手の特徴は、棒身のが円筒形か紡錘形、または裾開きになっていることである。これは棒身の両側にきを挾み、その上に鮫皮や皮紐、または糸などを巻いたものである。こうして握りをよくすることによって、実践的な使い方をよくしているのである。

 もう1つは、握柄と鈎の間に鍔を装着しているのが特色である。鍔は鉄製か真鍮製で、犯人の刀を鈎で挾み損なったときに、手指を切られないように保護する実践的な工夫である。房紐は朱色である。

十手 用途と種類(ジッテヨウトトシュルイ)
 江戸時代に捕具としてもちいられた十手の種類は、200種類以上あると言われている。当時の規格とされた長さは、1尺2寸か1尺2寸5分(37㎝前後)。これは十手を逆手に握った場合に、腕の外側の肱にその先端が届く長さが基準になっている。しかし、これはあくまで一応の基準なので、実際には用途に応じて長短さまざまに工夫されて使われていたようである。また、町奉行与力や同心、岡っ引、火付盗賊改、八州取締出役(八州廻り)など、所有者の身分や所属などによって、長さや形に違いがあった。

 装飾的な房紐にしても、朱房の十手は町奉行所の与力や同心、八州取締出役は紫、岡っ引の使うものは房紐がつけられないなど、それぞれに区分されていた。

手裏剣(シュリケン)
武器としては日本独自のものであり、手裏剣術はかつて武術としても盛んに行われていた。

手裏剣は手で投げて比較的近距離の敵を攻撃するための便利な武器である。

形状は流派によって様々で、種類も豊富である。

短刀型、針型、槍穂型、風車型などがあり、さらにそれらの変形型が存在する。

いずれもその先端が鋭利に尖らせてあり、命中すると突き刺さりやすいようになっている。

大きさや重量はそれぞれの流派によって異なるが、名前の通りに手の裏に隠れる程度のものが基本になると考えれば良い。

流派によって、弾道を安定させるため尾部に糸の房や動物の毛などを取り付けたものもある。

手裏剣は通常何本もまとめて腰袋に入れて携帯する。打つ時には数本を手に持ち、相手との間合いを計りながら打つ。

間合いは手裏剣の種類、打法によって異なるが、一般的に3~6メートル、遠打ちで約9~10メートル。

 手裏剣は、各種鉄扇堂にて販売しております。
手裏剣 打法(シュリケンダホウ)
手裏剣を投げることを、「打つ」という。

これは手裏剣というものは単なる飛び道具ではなく、剣術のように気魄によって相手に打ち付ける武器であるという心構えから来たもの。

投げ方も打法という。

打法には以下の3つがある。

直打法

剣先を指と同じ方向に向けて持ち、そのまま投げる打法。

普通に投げれば剣は回転してしまうので、手から離れる寸前に剣の尾部に力を加えて回転を抑え、目標にまっすぐ刺さるようにコントロールする。

コントロールには限界があり、5~6メートルが一般的な限界である。

回転打法

剣の尾部を指と同じ方向に持ち、空中で一回転させて刺さるように投げる打法。

剣は野球のカーブのように目標寸前で回転して目標に刺さる。

空中での剣の回転速度をコントロールし、剣が目標に到達する時にもっとも効果的な角度になるように投げることが必要。

近距離では剣が回転しきらないため、一定以上の距離において用いられる。

多回転打法

自然のままに剣を回転させて投げる打法。

十字手裏剣や八方手裏剣のように、どこにあたっても刺さるように作られている風車型の剣を飛ばすための打法。

誰が投げても刺さるほど単純な打法だが、剣の形状の空気抵抗が大きく、速度が遅く、風切り音を立て、深く刺さらないという武器としての欠点が多い部分がある。

手裏剣 歴史(シュリケンレキシ)
手裏剣は投擲武器として戦国末期頃に考案されたもの。

それ以前にも矢、槍、剣、短剣などが便宜的に投げられて使われていた。

最も古い記録として手裏剣らしきものが見られるのは、後三年の役の頃で「秀衡の記」に「手裏に小剣を隠して遠きを打つ」とある。

つまり語源的には短刀などを投げることを手裏剣に打つといったことになる。

やがて、戦国時代頃には脇差を投げることが多く行われるようになった。

それが剣術においては打物という技術へ発展する。その一方で戦国の乱戦を経験するなかで脇差、短刀などの武器が、投擲に適した形状へと小型化、専用化される。

その他にも槍や矢などの武器の利点なども取り入れながら、投擲武器として完成されていった。

手裏剣の起源については次のような説がある。

1 中国の投擲用隠し武器「鏢(ヒョウ)」の術からきている。

2 弓矢から発展した「打根」「手突矢」の技術から発生した。

3 剣術において短刀を投げる「打物」という技から発展した。

このうち1に関してはそうした投擲技術が日本に伝わったという形跡はみられないので、根拠が薄い。

むしろ2と3が手裏剣の基礎になったと思われる。

【す】

素槍(スヤリ)
刺突を目的とした長柄武器である槍は、間合いが長いのが最大の利点であり、しかも素早く刺撃したときに防ぎにくく、敵の戦闘能力を奪うに十分な致命傷や深手を与える威力を発揮する。

そうした戦闘における効果をより高めるために工夫研究されたのが近世の槍。

槍の基本形式は素槍だが、その外見的特徴は、穂先が直線形で枝や横手などがなく、柄も鎌や管などがついていなくて、全体が一本の棒状である。

直槍とも書き、槍の発生以来もっとも多く使われている形式。

素槍は穂先の長さ、槍穂の形状によって多くの形があるが、前述したように槍全体が棒状のものは、全て素槍に含まれる。

素槍から派生した形式として鎌槍、鍵槍、管槍、弭槍などの種類がある。

それぞれ槍穂の形、柄の長さ、独特な仕掛け、あるいは他の武器との組み合わせ、用法などの特徴によって区別される。

鉾は片手に持って操作するものだが、槍は基本的に両手で操作する。

それだけに、片手で突く鉾に比べ、槍は突き出す速度も早く、刺撃力も圧倒的に強力。

機能的にも両手で持つことによって、刺突したり、薙ぎ払ったりするだけでなく、突き倒す、殴り倒すといったふうに棒術のような用法も自在にできる。

槍の刺突する威力は簡単な鎧であれば突き通すほどで、そうでなくても素早く繰り出すことで敵の鎧の隙間を突き、深手を負わせたり致命傷を与えることができる。

素槍はその発生以来の戦場主要武器として使われ続けてきたが、その利点をまとめると次のような点が挙げられる。

第一に鎌槍や十文字槍に比べ穂が軽いこと。

例えば穂を短く、柄をできるだけ長くして、間合いを遠くすることによって攻撃を優位にできる。

第二に突く機能と振り回したり叩いたりすることが中心であること。

複雑な操作がいらず、武術の心得のない足軽・雑兵でも簡単に使えるので、集団専用武器としても大変優れている。

第三に鎌や鈎など余計なものがついていない直線的な形状のため、狭い間隙でも攻撃できる、といった点である。
素槍 歴史(スヤリレキシ)
文献上に槍の名が登場するのは南北朝時代のことで、具体的には正平2年頃の「後三年絵巻」に槍らしき長柄武器が描かれており、この時期が槍の創始期と一般に考えられている。

これ以後、文献にも多く登場するようになり、実際の遺物も資料も残されるようになる。

以来、槍は戦場の主要武器として活躍してきたが、主に用いられたのは素槍であり、鎌槍などのいろいろな形式の槍が流行するのは室町時代末期から。

槍が登場するとそれまで有力な長柄武器であった鉾が姿を消していく。

鉾から槍への変遷の過程については定かではないが、有力な要因と考えられているのは武装様式の変化である。

鉾は楯を持ち片手で操作したが、武家時代に発達した鎧兜は基本的に楯を必要としなくなる。

そのため両手で操作する槍の形式が発生し、威力も鉾より優れていたことから戦場で盛んに使われるようになったことがその理由。

戦場に登場した槍は、その強烈な攻撃力で一躍主要武器の座を占める。

その第一の理由は、優れた威力はもちろん、何よりも使用法が簡単で、武士から雑兵まで幅広く使えたこと。

室町時代になると足軽に槍を持たせた長柄組なども編成され、大きな戦力を形成する。

同時にこの時代に槍の操法も体系化されはじめ、槍の形式も十文字槍などいろいろなものが工夫・考案された。

さらに、それと機を一にして多くの槍術の流派が花開く。

そうした中でも素槍は槍の基本形式としての地位にあり、江戸時代に発生した多くの槍術流派のほとんどが素槍を使うものだった。

代表的流派には、大島流、新当流、種田流、疋田流、無辺流などがある。

また、武士の表道具とされた持槍も素槍だった。

【そ】

袖搦(ソデガラミ)
○構造と用途

 犯罪人が武器などを持って抵抗し、十手や捕縄だけでは手に負えないときには、寄棒や三道具などの長柄仕寄具を使って包囲し、取り押さえる。その三道具のうちの一つが袖搦である。

 柄の長さ、強化処置などは「捕物の三道具」で紹介しているので省略する。袖搦の特色は長い棒の先端に付けた金具の形状にある。それは鍛鉄製の釣針状の鈎を上下方向に組み合わせたものだ。上下方向の鈎によってどの方向からでも衣類などに絡み付きやすく、釣り針状だからいったん絡んだらなかなか離れない。鈎の組み合わせは上下6方向のもの、8方向に出したもの、あるいは1本の鍛鉄を枝分けさせて4本、6本の鈎を出したものなど、その様式に一定の決まりはない。

○歴史と詳細

 袖搦は室町時代の中期以後に中国大陸から伝わったもので、当初は水軍の武器として用いられ始め、その後、戦場、主には攻城戦の武器として使われた。戦国時代から江戸時代にかけて、捕縛の道具としての機能が重視されるようになると多くの流派が生まれ、いろいろな形状や用法が工夫された。長柄仕寄具のなかでも、とくに袖搦は使いやすく、優れた利点を持っているものである。その用法としては、まず犯人の着衣の袖や襟、袴の裾、ちょんまげのもとどりなどに鈎を絡みつけ、ねじるようにして引き倒す。また、刀を持った犯人に対しては鉄針のついた部分で打ち落とすか、刀を鈎ではさみ動きを封じる。刀を挟んだ鈎は少しねじれば離れないので、刀を奪うか、あるいはそのまま犯人をねじ倒して取り押さえる。

 袖搦はその形状が獅子の頭(首)に似、狼の牙のように鋭く、絡みついたらなかなか取れないことから、獅子頭、狼牙棒(ろうがぼう)などの呼び名もある。そのほかにも用法上の特徴から「捻止(ねじ)」「捻り」水軍用の武器では「やがらもがら」などとも呼ばれる。

た行

【た】

太刀(タチ)
太刀は刀身の長さが2尺以上の、大きく反りをつけた彎刀で、造込みは鎬造りで、茎形式。

茎には鮫皮や樺を巻いた木製の把がはめられ、練革か鉄あるいは金銅製の鍔が付けられている。

実用的な太刀は、刀身長75cm前後のものが一般的。

把をつけて全長90~100cmくらいが、騎乗でも地上の戦闘でも扱い易かったとされる。

ほかにも長短の刀身があるが、2尺以下のごく短いものは小太刀、3尺以上の長大なものは大太刀と呼んで区別される。

刀身の長さだけでいえば、打刀もほとんど同じだが、その区別は着用法の違いにある。

太刀は鞘に設けた足金物に帯取の緒をつけ、刃を下に向けて腰に吊るす。

これを「佩く」と言う。

それに対して、打刀は刃を上にして腰に差すという違いがある。

同じ日本刀であるので造込みも大差なく、長さも同じだとしたら、どこで刀身の区別ができるかということになるが、違いは刀工の銘を刻む位置で区別できる。

太刀は棟を上に向けて佩くので、腰に吊るすときに外側になる佩表の刃面に作銘を刻むのが通例である。

逆に打刀は太刀と反対の面に銘が入る。

よって、外装を見なくても太刀と識別することが可能である。

太刀は基本的に両手で握って扱うときには、斬撃力が非常に高くなり、腕を斬り落とすくらいの威力がある。

また、騎乗では片手で扱うが、刀身が大きく反っているので、場上から斬りつけるにも適している。

斬る性能に優れ、比較的軽量であるため扱いやすく、攻撃にも防御にも便利な武器であるというのが太刀の利点。

こうした特色は日本刀全体にいえることでもある。

逆に太刀の欠点は着用の仕方にある。

腰にぶら下げているから、場上では良いとしても地上での素早い移動には邪魔になる。

それが後に打刀の様式に取って代わられる要因でもある。

直刀の場合は、突くことが中心であるから操作技術としては、比較的単純なものだが、太刀が登場すると、斬る、突く、払うあるいは投げることも含めて、操作技術は複雑になる。

とはいっても太刀が使われた鎌倉、南北朝時代は、まだ力に任せて斬りつけるという用法が主で、いわゆる剣術というものが本格的に発達するのは、室町時代以降のことである。
太刀 歴史1(タチレキシ)
平安時代初期まで流行した直刀は、突くのには適しているが、斬るにはあまり便利な兵器ではなかった。

そこで、刀身に反りをつけ、それとともに造込みも直刀の平造りまたは切刃造りよりも強固な形式である鎬造という鍛造方法を考案し、武器としての能力を高めた。

極端に言えば、これは日本の武器の大きな革命といえる。

刀剣は古代から江戸時代まで常に主力武器の1つであった。

そのなかで奈良時代までの刀剣は、外来の文化をそのまま利用した直刀だったのに対し、完全に日本固有のものへといわば自立したと言える。

ではなぜ日本刀という世界的にも独特な刀剣の形式が生まれたのか。

それについて色々論じられているが、結論らしきものとしては、中国にも西洋にもないということは、日本人の民族的風土的感性、美意識といったものが大きな要因としてあるのではないかといわれている。

もちろん武器が進歩、発展する具体的要因は別にある。

灣刀が登場する時代背景には、源氏と平家を棟梁とする武家の台頭がまず上げられる。

武士の登場は、それまでの徒歩戦闘から騎馬戦へと戦闘形態を変化させ、馬上戦での武器の威力、操作の便利さが求められるようになった。

さらに、武士の時代の到来は刀剣の需要を多くし、刀工の数を急速に増やした。

それによって刀剣造りの技術が向上し、戦闘の経験をふまえた創意工夫の積み重ねによって太刀が生み出されたのである。

太刀の流行した時代をざっと眺めてみる。

平安時代末期の太刀の特色は、一般的に刀身の幅が狭く、刀身の形状は手元に比べて先のほうでぐっと細くなり、先端は小切っ先になっている。全体としての反りは深めで、反りの付け方が極端に把に近い部分で大きく反らし、その先の身はほぼ真っ直ぐ。

この時代の主な刀工は、京都や奈良周辺と刀剣用の良質な産地である伯耆国とそれに隣接する備前の一帯だった。

また、この時代に刀工を保護したことで知られるのは、奈良や比叡山などの南都北嶺の僧兵達。
太刀 歴史2(タチレキシ)
鎌倉時代は日本刀の黄金時代といわれる時代だった。

源頼朝による武家政治体制が確立し、武術が武家のたしなみであるという社会的価値観の成立を背景に、全国各地に数多くの刀工を生み出し、後世に名刀と伝わる傑作も多く作られた。

その中の1人に相州正宗がいる。

鎌倉初期の太刀の姿は前時代の継続だが、中期になるとやや変化して刀身の幅はぐっと広くなる。

元と先の幅の差も少なくなり先反りが加わり、大切っ先になる。

さらに鎌倉末期になるほど身幅は広くなる。

なお、この時期に作刀の隆盛に刺激を与えた出来事として、後鳥羽上皇の御番鍛冶がある。

上皇は山城国の粟田口、備前国、備中国、から13人の刀工を御所に呼び寄せて、月番によって作刀させることによって大いに奨励した。

後期になると元寇による非常事態の緊張が武器の充実に拍車をかけた。

鎌倉時代に一般的に使われた太刀には、その外装から黒漆太刀、黒漆白金物太刀、葦包み黒漆太刀と呼ばれるものなどがある。

南北朝時代はには、豪壮でしかも実用本位の太刀が流行し、その特徴は前時代よりもいよいよ刀身の幅が広くなっていることで、重ねは薄め、先端は大切っ先となる。

特にこの時代には鎌倉末期頃から使われはじめた、刀身が約85cmという長大な野太刀が盛んに使われ、室町時代にはやや下火になるが、桃山時代にはまた流行する。

野太刀というのは外装の立派な上層階級の用いる太刀に対して、一般の兵士が戦場で用いた質素で実用的な外装の太刀。

当時の名工としては、越中国の義弘、則重、山城国の長谷部国重、来国次、美濃国の兼氏、石見国の直綱、筑前国の左など正宗の十高弟といわれる刀工たちがいた。

14世紀末には南北朝が統一されて室町時代は一応平安だったが、やがて中期には応仁の乱が全国的に波及して地方の大名間の争いが激化し、以後100年間戦国の時代が続く。

その戦乱によって多数の刀剣が必要になり、大量生産の数打物といわれる量産品がつくられるようになる。

そのためこの時代は、刀剣の歴史のなかでいわば質的に低迷の時代とされている。

ただ、この量産の太刀が幕府の政策によって中国に輸出され、明末から清代に渡って使われたことは特筆される。

やがて室町中期になると太刀に代わって打刀の様式が登場し、太刀の時代は終息する。
太郎太刀 次郎太刀 1(タロウダチジロウダチイチ)
所持者は真柄十郎左衛門・十蔵父子

 乱世に群雄割拠した戦国大名たちにとって、優秀な家臣は万金にも代え難い存在でした。

 たとえば織田信長の場合は、

 「不動行光(名刀)、つくも髪(茶器)、人には五郎左御座候」

 と歌われた丹羽五郎左衛門長秀を始めとする、優れた家臣を多数抱えていたが、他の大名家にも有能な者は数多く存在しました。

 一口に有能といっても、その有様は人それぞれです。たとえば豊臣秀吉のように頭の回転の早さで頭角を現し、本能寺の変で落命した信長の功績を余さず受け継ぐ形で天下人となった人物がいれば、純然たる武人として合戦場においての働きで他者を圧倒する、剛勇の士も数多くいました。

 これから紹介する真柄十郎左衛門直澄・十蔵父子は、戦国乱世の徒花ともいうべき、後者の典型例です。
太郎太刀 次郎太刀 2(タロウダチジロウダチニ)
○破格の超武具を振るう父子

 越前国(福井県)の朝倉氏に仕えた真柄父子は、ともに大太刀の使い手として勇名を轟かせた剛勇の士です。太郎太刀・次郎太刀の異名を冠する父子の愛刀の長さは尋常ではありませんでした。

 十郎左衛門の太郎太刀の刀身は、実に5尺3寸(約150.9㎝)。当時の成人男性の平均身長が160㎝以下だったことを思えば、誠に驚くべき長さと言うべきでしょう。重ね、すなわち刀身の厚さは3分5厘(約1.05㎝)もあり、峰の上に銭を置くことができるほど分厚いものでした。丸型の鉄鍔はまるで車輪のようだったと伝えられています。

 柄を含めた全長は1文(約300.3㎝)。つまり、通常の刀装ではなく、刀身と柄の長さがほぼ等しい長巻タイプと見なされます。確かに構造の上では柄が長ければ長いほど重心が分散されて、それだけ扱いやすくなるでしょう。とはいえ、総鍛鉄製で小柄な男性の身長並みの大太刀を自在に操ることなど、人間業ではまず不可能に違いないでしょう。ところが太郎太刀の刀身は1貫200匁(約4.5kg)と、意外なほど軽量に作られています。その上に長柄の仕様となれば、鍛えられた戦国武者の手に余るということもなかったのではと思えてきます。

 十蔵の次郎太刀は4尺7寸(約122.1㎝)とやや短いものの仕様は同じで、他に例を見ない超武具である点においては父の愛刀にも劣るものではありません。これほどの長大な刀を振るうことが可能な父子を朝倉氏は擁していたのです。
太郎太刀 次郎太刀 3(タロウダチジロウダチサン)
○戦慄の乱刃

 真柄父子の活躍に関する伝説がひとつあります。ここでは十郎左衛門の名前は直隆、十蔵は隆元となっています。

 ある時、一向一揆勢の掃討を命じられた父子は随伝坊(ずいでんぼう)という従者のみを従えて、わずか3騎で討って出ました。父子の武具は無論太郎太刀と次郎太刀。随伝坊は1丈2尺(約360㎝)もある六角棒を携えていました。

 一揆勢を前に名乗りを上げた主従は、それぞれに騎馬を駆って大勢の中に割って入ると、縦横無尽に斬り廻って追い散らし、瞬く間に80余人をなぎ倒したといいます。

 これが尋常の武者の逸話ならば、まずあり得ないと一笑に伏すこともできるのですが、破格の超武具を駆使する父子の武勇伝ともなれば、完全な作りごととも思えません。

 ちなみに、この伝説での太郎太刀は7尺8寸(約234㎝)で、次郎太刀は6尺5寸(約195㎝)とされています。全長ということなのでしょうが、ここに出てくる太郎太刀は従者が4人がかりで担ぐほど重かったとされており、とても1貫200匁ぐらいでは収まりそうにありませんが、現実に長く重い大太刀を軽々と振り回せればこそ、伝説において誇張された武人のイメージも、より確かな、説得力のあるものとなり得たのでしょう。なお、作刀者は越前の刀工・有国(ありくに)と兼則(かねのり)で、合作ということになっています。

 先述した太郎太刀の全長1丈、刃長5尺3寸、重ね3分5厘、重さ1貫200匁というスペックは、白山比売神社(石川県石川郡鶴来町三宮町)所蔵のものです。作刀者は享禄(1528~32)の加州(加賀)鍛冶・行光です。
太郎太刀 次郎太刀 4(タロウダチジロウダチヨン)
○父子鷲の最期

 真柄父子の勇名を今に伝える『信長記』は、言うなれば織田信長と彼に味方した諸大名小名の武功伝です。その『信長記』に、信長と敵対した朝倉氏に仕える父子の名前が記されているのは、すなわち、敗軍の将兵としてということに他ならないでしょう。敗走する主君の盾として果てたのです。

 時は元亀元年(1570)6月28日早朝。信長は義弟の浅井長政の裏切りに激怒し、徳川家康など諸将の援軍を得て、浅井・朝倉勢と雌雄を決するべく軍を進めました。世に言う姉川の合戦です。8時間にも及んだ戦闘は、敵も味方も共に消耗するのを避けるため和睦を望むのが実は通例だったという当時としては、異例の総力戦となりました。

 織田・徳川連合軍と激突した朝倉義景の軍勢は、同盟を結ぶ浅井勢ともども敗走を余儀なくされました。となれば退路を確保するべく、配下の将兵は追手を迎え撃たなければなりません。かくして矢面に立つことになった真柄十郎左衛門は、愛用の太郎太刀を振るって奮戦、40~50間(72~90m)四方の地面が踏まれて鋤き返したようになってしまうほど、四方八方に斬りまわりました。

 しかし、そこには自ずと限界がありました。

 合戦場の主武器は刀ではありません。遠隔から敵勢を掃討するのは弓足軽の役目であり、近接戦闘においては間合いを確保しながら攻めることの可能な長柄武器、それも槍に勝る存在はありません。薙刀と太刀を兼ねた武具として南北朝動乱のころまでは重宝されていた大太刀も、すでに時代遅れとなっていたのです。

 助け合いながら繰り返し槍で突きかかる徳川方の武者・匂坂式部(さぎさかぎょうぶ)とその兄弟、さらには配下の足軽たちの援護まで加わっては、いかに大太刀の達人といえども為す術はありません。匂坂兄弟の末弟・六郎五郎に首級を挙げられた父の後を追うように、十蔵は次郎太刀で暴れ回った挙句、徳川方の勇将・青木所右衛門一重の鎌槍に左手を斬り落とされてしまいます。刀剣、特に刀身が長いためにバランスが取りにくい大太刀の場合、軸点となる左手を失っては、もはや十全に機能しません。かくして真柄の父子鷲は戦国乱世の終焉を見ることなく、木っ端微塵に玉砕して果てたのでした。
弾弓(ダンキュウ)


 弾弓の構造はほとんど弓と同じだが、矢を発射するのではなく弾丸を弾き飛ばすものである。弦の中央部分に革を縫い付けてあるのが特徴で、これに弾丸を包み込むようにして弦を引き弾き飛ばすのである。現存する遺物としては奈良の正倉院に2張りが所蔵されているが、その形状は1本が長さ162cmで、弓身は梓の白木造。両 弓耳(はず) を漆塗りし、握りの部分に紫革を巻き雑色組緒を飾っているというもの。もう1本は長さが171cmで、形状は前者と全く同じである。この弾弓はどちらも弦が竹製であることから武器とは考えにくく、おそらく遊戯用だったのではないかと考えられている。

 弾弓は奈良時代に中国から輸入されたもので、中国では主に貴族の遊具あるいは狩猟用に使われていた。その一方で隠し武器としても用いられ、音もなく飛び、射程も威力も手で投げるより長く強力であることから、危険な武器として恐れられていたのである。弾丸は石弾か粘土を固めた土弾、あるいは土弾を焼成した陶弾、鉄を鋳造した鉄弾など。形状はパチンコ玉からゴルフボールくらいの大きさというから、急所に命中すれば大きなダメージを与えるだけの威力は十分にある。
短刀 形状と用法(タントウケイジョウトヨウホウ)


 短刀は刀身長が30㎝以下の刀剣のことで、時代や用途に応じて腰刀(こしがたな)、馬手差(めてさし)、鎧通し(よろいとうし)、合口(あいくち)などの名前で呼ばれている。

 一般的な形式は平造で、ほとんど反りがないものが中心だが、時代によってわずかな反りを持つものもあり、造込みも片切刃造、両刃造、鵜首(うのくび)造などがある。短刀の基本形となっているのは、粟田口吉光、新藤五国光、相州正宗などの多くの名工によってつくられた鎌倉時代の短刀で、刀身長は20~27㎝くらい。茎はまっすぐのものが大半だが、なかには強く反りのある振袖茎という形式も見られる。この振袖茎は片手で柄を握るときに便利なように工夫されたものである。こうした形式が、以後の短刀に大きな影響を与えている。

 また、短刀は鎌倉時代以降主に腰刀として用いられたが、時代の流行や刀工の流派、個人の好みなどによって、反りがつけられたりまっすぐだったりする。刀身の幅も広くなったり細くなったり、長さも10㎝という短いものから30㎝に近いものまであり、その種類は多種多様である。用途としては基本的に主武器の補助的武器であり、護身用、隠し武器として用いられた。通常戦場では長い刀剣のほかにこの短刀を所持し、敵と組み討ちになった時などに攻撃用に使う便利な武器だった。特にそうした場合を想定して、刀身を細くして鎧を刺し通しやすいようにしたのが鎧通しと呼ばれる短刀で、戦国時代に流行した。また、合口は柄と鞘の口がぴったり合わさることからその名がつけられたもので、要するに短刀にはほとんど鍔はつかない。
短刀 歴史と詳細(タントウレキシトショウサイ)
 短い刀剣の歴史は刀剣の起源にまでさかのぼるもので、逆にいえば石器時代には、長い刃の道具をつくる技術がなく、当然短かった。狩猟用と同時に武器として使われたと考えられる最初のものは、旧石器時代に登場するナイフ形石器である。長さ21㎝ほどの石製ナイフは、柄をつけて短刀として使われたとも考えられ、弓矢のない時代には最も鋭利な武器であった。それが発展したものに、縄文時代の石刀の一種で青竜刀形石器というものがある。中国の青竜刀のように刃が大きく湾曲しているのが特色で、刀剣としての形状をほぼ整えている。

 弥生時代に入ると青銅製、鉄製の刀剣が現れ、剣とともに短剣もつくられた。弥生時代末期から古墳時代の初めにかけての古墳から発掘される青銅の短剣は、だいたい長さが17.5㎝、幅3㎝といった形状のもの。古墳時代前期には剣が流行するが、その長さは20~30㎝のものが中心で、短めのものはほとんど短剣の部類に入る寸法だった。

 一方、剣の後に流行する太刀(たち)も、ごく短いものがつくられているが、これは刀子(とうす)あるいは小刀と書き、古い文献では「かたな」と読ませているものもある。長さはだいたい25㎝前後で、後世の短刀と同様、長い刀剣の補助武器として差添にして用いたものである。以後、刀子の形式は平安時代まで続き、鎌倉時代には小太刀、刺刀(さすが)などの短い刀剣が差添にされるようになり、そこから腰刀の形式が発展し江戸時代まで流行する。
短刀 歴史と詳細2(タントウレキシトショウサイニ)
 

 鎌倉時代以降の短刀は、だいたい平造が一般的な形式だったが、時代によって造込みにも変化があった。たとえば、室町時代の特色は両刃の短剣の流行やごく短い懐刀(ふところがたな)などが現れたことであった。戦乱のなかで敵との格闘などの経験から工夫されたのである。また、戦国時代には馬手差と呼ばれる短刀も登場する。これは太刀とは逆の左腰に差して用いることから「右手差」とも書く。この短刀は敵と組打ちするときに便利なように工夫されたもので、敵と組み合っているときには左腰の太刀は右手で抜きにくくなる。そこで馬手差を抜き敵を刺し、首を掻き切ったのである。刀身が鎧を通すように細身になっていることから、後に「鎧通し」の名で呼ばれるのもこの短刀である。

 さらに時代が下り、戦乱が終息して泰平の世になった桃山時代を境に短刀の隆盛期は終ったともいえる。戦国乱世には常に敵から身を守ることが必要で、短刀の果たす役割は高いものだった。しかし、その必要が少なくなり江戸時代になると、腰刀は高い身分の武士が日常屋敷の中で差す程度の役割になる。また、当時の風俗として時代劇などでもよく見られるように、婦女子の護身用の懐剣として用いられたり、盗賊などが隠し武器として合口を所持するといったことがよくみられた。
種子島銃(タネガシマジュウ)
○形状と用法

 種子島銃は天文12年ポルトガル人によって伝来されたムスケット銃をモデルに、わが国で製造されるようになった前装式の火縄点火方式の小銃である。この形式を基本とした鉄砲の製造は種子島に始まって全国各地に広がるが、発祥の地にちなんで「種子島」あるいはまたその着火形式から「火縄銃」と総称された。

 種子島に初めて伝わった火縄銃の形状は、銃身長718mm、全長1012mm、口径14mmというものである。その後国産(伝来以後、19世紀半ばまで約300年間、生産、使用)されたものはだいたい全長80~185cmの範囲内で、口径も最小7mmくらいから最大90mmくらいまである。とにかく、火縄銃は1丁1丁が手作りで、「番筒」(40~50人規模の鉄砲組用の揃いの銃で、番号入り)といわれるものを除いて、ほとんど形状、サイズなどが異なる。要するに、千差万別、多種多様というのが火縄銃の大きな特色でもあるわけだが、ここではもっともよく使われた標準的な銃にスポットをあてて、その形状、性能、威力などを紹介する。

○標準サイズの火縄銃

 戦国から江戸初期の時期に一番多く使われたものは、標準的な全長が1300~1350mm、銃身長が1000~1050mm、口径が11~12.5mm(2~5匁)。重量はだいたい2~4kg程度。外見的にはストレートで、太さがあり、飾りはあまりないというのが共通している。

 標準タイプのカラクリ(点火機構)は、ほとんどが松葉形のバネを用いた外バネ系カラクリといわれるものである。仕組みとしては、まず火挟みを持ち上げると、その下部が松葉形のバネを圧する。そのままの状態で火挟みの後端を、地板から出ている小さな爪に引っ掛ける。爪は内側のアームにつながり引き金と連動しているため、引き金を引くと爪が引っ込んで、バネの反発力で火挟みが落ち、先端の火縄が火皿の火薬に接して点火するというわけだ。
種子島銃 2(タネガシマジュウニ)
○射程距離と威力

 射撃をするときには、銃口を上にして地面に立て、早合(はやごう)などの火薬入れから、計量した火薬を銃口に注ぎ込む。次に弾丸を入れ、カルカという弾込め専用の樫の棒で突き装填。銃を持って火皿に火薬を盛り、口薬入からも火薬を入れる。そうして火挟みに火のついた火縄を取り付け、構えて撃つのである。

 日本の火縄銃は銃床が短く、射撃のときには「頬つけ」の姿勢で行うことが特色である。これに対して外国銃の場合は銃床が長く、銃尾を肩に固定して射撃する。この違いは武装のスタイルにあり、鎧を着用する場合「肩つけ」よりも「頬つけ」のほうが便利なのである。

 標準タイプの火縄銃の最大射程距離は700mといわれるが、戦場では最高300mくらいから撃ち始めたという。但し、これくらいの距離だとほとんど威力はない。通常有効射程距離は100m以内で、実戦でもこのくらいの距離で射撃を行った。その精度は、ある程度訓練した射撃手で10発中8、9発は人間の上半身くらいの的に確実にあたるほどである。つまり、戦場の乱射でも少なくとも20~30%の命中率はあったと考えられる。

 また、その威力は、50m~100mの距離で厚さ3cmの板を軽く撃ち抜くといわれ、鎧の小札の薄い鉄板なども十分撃ち抜いてしまう威力があったといえる。騎馬兵なら馬を撃って落馬させることもでき、当たり所によっては人間も即死させることができる。戦国時代の当世具足が厚い鉄板を用いるようになったのは、こうした鉄砲の威力に対応するためだったのである。

 火縄銃は間合いが遠く、威力もあり攻撃には非常に有利な武器だが、欠点は雨の日や強風では火縄が消えて役に立たないなど、気象条件に左右されることである。黒色火薬は湿気に弱く、特に火縄は戦場で首や手首に輪にして保持し、連続的に撃つときには1mほどの長さのものを2、3本持って火をつけておくので、雨に濡れやすいのである。火縄は主として竹、木綿、ひのきなどを材料にして作るが、いったん濡れてしまうと乾かしても火がつかなくなってしまう。そのためいろいろな工夫も考えられたが、結局気候条件をクリアーする決め手はなかった。
種子島銃 3(タネガシマジュウサン)
 また、作戦によっては火縄の煙や火薬のにおいが障害になることもある。さらに大きな問題点は、第一弾を発射して第二弾を発射するまでかなりの時間がかかることである。最初に撃って次の弾込めをして再度撃つまで、普通慣れた者でも20秒はかかり、早くてもせいぜい1分間に4発撃てればいいところだった。これでは戦場でよく訓練された騎馬兵に攻め込まれた時には対応しきれない。そのため、そうした欠点を補うための戦術が西洋でも中国でも工夫され、日本でも織田信長によって画期的な鉄砲戦術が実践された。要するに火縄銃の威力を最大限に生かす戦術とは、集団による一斉射撃を基本にして、数列の隊列を組み、各隊列が順次間髪をいれずに連続的な射撃を行うという方法である。
竹槍(タケヤリ)


 竹槍は長い竹の先端を鋭く削ってとがらせて穂先とし、相手を刺突することを目的とした武器である。竹槍には、肉が厚くてまっすぐな青竹を使い、普通、根元の太い方を穂先とする。穂先の部分の直径がおよそ5㎝前後、手元の方が約3㎝かそれよりちょっと太いくらいのものが適当とされ、長さはだいたい4m前後。

 製作方法は、穂先にする部分をおよそ20度の角度を持たせて削る。さらに削った部分に油を塗り、火であぶって強化処理を施す。その処理を何度か繰り返すと、竹に油が染み込み強固になる。また、手元の部分は節の高いところを削って滑らかにし、手の中で滑りやすくする。末端は普通に断ち落とし石突も何も付けない。

 竹槍は、素材がどこにでもあって誰でも簡単につくれ、操作も簡単、と非常に大衆的な武器である。それだけに歴史的にみると、通常は武器を持たない民衆が用いる主要な武器となっていた。たとえば、江戸時代の百姓一揆や打ち壊し、あるいは博徒の出入りなどに必ず使われたのが竹槍である。

 戦国時代までは百姓も兵士としてかり出されることが多く、各自武器を所有していた。しかし、江戸時代になり合戦がなくなると、領主による兵農分離の政策が進められ、農民は一切の武器を取り上げられてしまう。そのため、領主の圧政に抗議するとき、唯一手にできたのが手軽につくれる竹槍だった。その意味で、竹槍は支配者に対する被支配者の抵抗のシンボル的な武器であった。

【ち】

乳切木(チギリキ)
乳切木は、長さ約120cm、太さ3cmほどの棒の先に、約90cmの鎖をつけ、その先端に分銅をつけたもの。

分銅の大きさは直径3cmくらい。

連接棍棒の形式で、武器としては西洋のフレイル、中国の多節棍に相当するもので、棒に他の機能を持つものを連接することによって、攻撃力を高め敵が避けにくいよう工夫した武器。

使用方法は棒を両手で持って振り出し、鎖で敵の武器をからめる。

また、棒を振り下ろして分銅で打ったり、あるいは棒で殴打したり突いたり、敵の攻撃を払ったりする。

棒、鎖、分銅という要素を組み合わせただけに、攻撃のバリエーションは多様になり戦いには非常に有利だが、鎖がたわむため、操作に熟達していないと不利になる。

自在に使いこなすには、相当に高度な技術を要する。

鎖鎌の変形した武器の一種とも考えられており、江戸時代には1対1の格闘用の武器として主に用いられた。

乳切木 歴史(チギリキレキシ)
乳切木は地面から胸までの長さの棒のことで、だいたい120cm前後。

ちょうど杖にも使える便利な長さの棒であることから、この形状の棒は鎌倉時代の頃から小武器の一種としてよく用いられていた。

室町時代頃になると長短様々な形式の棒が考案され、それにともなって棒術も発達する。

その中の一形式として乳切木の操作技術も完成された。

こうした乳切木から発展した形式として、江戸時代に乳切木の棒に鎖分銅をつけたものが考案される。

これが単純な棒とは区別されて、一般に乳切木と呼ばれるようになった。

安土桃山時代以降は、武器類のうちでも個人的闘技に用いる小武器が数多く考案されるようになるが、同様に乳切木も攻撃力を高めるために改良が加えられた。

それが江戸時代にかなり流行したようで、その技法を伝える流派なども登場している。

流派によって独自の改良を加えたものを用いることもある。

例えば、棒の中程に相手の刀を引っ掛けてもぎ取ることを目的とした鈎をつけたもの、鎖の先の分銅が竜吒という竜の手のような鉤爪になっているものもある。

戦場用というよりも個人の格闘用の武器としての色合いが強い。

なお、乳切木の形状で中央を少し細く削って、両端を太くしたものもある。

これは本来の目的としてはものを担うためのものだが、時に応じて武器としても用いられた。
手水鉢切りの名刀 1(チョウズバチギリノメイトウイチ)
所有者は梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)。

○武家の一大争乱が生んだ「源平合戦物」

 古典芸能の一ジャンルに「源平合戦物」が存在します。

 武家の棟梁、さらには武家政権の頂点の座をかけて、源氏と平家の間で繰り広げられた熾烈な闘争とその結末に材を得た諸作品は時代を超えて見る者の心を惹きつけてやみません。

 享保15年(1730年)2月に大阪竹本座にて初演された浄瑠璃『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』は、そんな「源平合戦物」の一本です。

 現在、文楽では上演の機会は少ないのですが、同名の歌舞伎(享保15年8月初演)は人気作の一本として『石切梶原』の通称で親しまれています。

 これからこの題名はどういう意味か解説していきます。
手水鉢切りの名刀 2(チョウズバチギリノメイトウニ)
○試し切りがクライマックス

 原典の全5段のうち、現在上演されるのは文楽か三段目「青貝師六郎太夫住家(あおがいしろくろうだゆうすみか)」と「星合寺(ほしあいでら)」の場面、歌舞伎が「星合寺(鎌倉八幡社頭)」のみとなっています。

 屈指の見せ場は、主人公の梶原平三景時が六郎太夫より託された家宝の名刀を振るい、石の手水鉢を一刀両断にする名場面です。

 この名刀は、物語の中でいかなる役割を果たしているのか、平三の試し切りは、果たして何のために行われたのでしょうか。

 物語の全編が、源氏に加勢した鎌倉武士たちのゆるぎない意志と誇りに貫かれている点を踏まえながら『梶原平三誉石切』の筋立てを紹介していきます。
手水鉢切りの名刀 3(チョウズバチギリノメイトウサン)


○伊豆挙兵の裏で

 青貝師(螺鈿塗り職人)の六郎太夫は、源頼朝の挙兵に加勢した伊豆の豪族・三浦大助(義明)の隠し子で、実の長男でした。

 石橋山の合戦では惨敗を喫したものの、まだ頼朝は再起の志を失ってはいませんでした。

 しかし、兵をあげるには金が要る。

 源氏への誠意を示すため、六郎太夫は父よりわが子の証として授けられた、家宝の名刀を売り払おうと決意します。買主は平家に与する大名の大庭三郎景親でした。つまりは敵方から挙兵の資金をせしめようという目論見でしたが、相手もお人よしではありません。鎌倉の星合寺(歌舞伎の場合は一般に鎌倉八幡宮社頭)に刀を持参させ、その場で目利きをしたうえで買い取るか否かを決めようと三郎は提案しました。同じ平家方の梶原平三に目利き役を依頼する旨を取り決めました。
手水鉢切りの名刀 4(チョウズバチギリノメイトウヨン)
○土壇場の六郎太夫

 星合寺に赴いた平三は隙のない目利きを行い、刀身に「八幡」の文字があることから、源氏にゆかりの名刀に違いないと太鼓判を押します(八幡神は源氏の氏神)。ならば買い取りを、と話がまとまりかけたところに割り込んできたのが、同行した大庭三郎の弟・俣野五郎でした。切れ味の鋭い利刀との言い伝えを証明するため、二つ胴での試し切りをこの場でやってほしいと五郎は難癖をつけてきます。

 当時の試し切りは生き胴、すなわち死罪の者を生きたまま斬るという形で行われました。二つ胴とは文字通り、2人を重ねて斬ることを意味しています。ところが、手配できる罪人は一人しかいません。そこで六郎太夫は自分を加えて試すようにと申し出ます。

 しかし、生き胴での試し切りは不首尾に終わりました。

 平三が振るった刃は重ねた罪人のみを斬り、下の六郎太夫にまでは届きませんでした。

 とんだ鈍刀だと呆れた三郎・五郎の兄弟が去った後、平三は石の手水鉢の前に立ちます。

 再び振るわれた名刀は、手水鉢を一刀両断に斬り割りました。

 平家に与してはいても、平三の本心は源氏の味方だったのです。石橋山の合戦で敗走した頼朝を助けたのも、実は平三でした。

 名刀は自分が買い取ると告げ、命拾いした六郎太夫と娘の梢を自分の屋敷へと連れ帰る平三。

 捲土重来を期した頼朝の再起は、もうすぐでした。
筑紫薙刀(チクシナギナタ)


 薙刀の一形式で身の形状が鉈に似ているため「鉈薙刀」の名称もある長柄武器である。薙刀や槍の場合、茎を柄に装着する方式が一般的だが、筑紫薙刀は櫃(ひつ)と呼ぶ輪金を茎の基部に備え、これに柄を通して固定する。刀身が45cm前後の、この特殊な薙刀はほとんど九州地方においてのみ用いられていたものである。なぜ地域的に限られて広く流布しなかったのか、理由は明らかではない。

【つ】

剣 七支刀(ツルギシチシトウ)


 『古事記』『日本書紀』には、古代の主要な武器として剣の名前が多く登場するが、その中に十握剣(とつかのつるぎ)、八握剣、頭槌剣(かぶつちのつるぎ)、七支刀(ななつさやのたち)などと呼ばれるものがあるが、いずれもその形状を表現したものである。

 そのうちの七支刀(しちしとう)は、古代の刀剣のなかでもその独特な形状、まつわる由来に神秘な雰囲気を持っている剣である。実物は奈良県天理市・石上神宮に所蔵されており、刀身は鍛鉄両刃造りで、長さが83.9㎝。刀身の左右に交互に3本ずつ枝刃がついているというものである。社伝では「六支鉾」または「六刃鉾」と呼ばれているが、この剣は『日本書紀』のなかに書かれている新羅から献上された「七支刀」に該当すると考えられている。残念ながら、刀身に刻まれた文字が錆のため完全に読み取れておらず、いずれこの文字が考証されれば、古代の朝鮮と日本の関係を解明する大きな鍵になるといわれている。
剣 形状と用法(ツルギケイジョウトヨウホウ)


 剣は敵を突いたり、斬ったりすることを目的とする両刃の直刀である。「剣」の文字は『日本書紀』や『古事記』のなかで、宝剣、霊剣という意味合いで使われており、古墳時代後半に並行して用いられていた大刀よりも高貴な地位が与えられている。実際に戦闘用として用いられる場合、一般兵士が持つものではなく、皇室や公家など身分の高いものが所持するものだった。

 古墳時代の剣は、長さ20~90㎝の範囲で長短いろいろあるが、一般的なものは全長が70~80㎝、刀身は55~65㎝くらい、中央部分の身幅はだいたい3.5㎝程度。鉄製の刀身の造込みは、両鎬で断面が菱形のものが中心だが、鎬をつけず断面を両凸レンズ状(平たい紡錘形)にしたものもみられる。重量は300~500gの範囲内。把(つか=柄)は長さ15㎝以内で、杷にはあて木を当て、その上に糸や絹帛を巻き締めたりしている。なお、長さが20~30㎝の短剣も当時は多くつくられている。

 用法としては、当時の戦闘スタイルは楯を持つのが一般的であり、剣は片手で握る。攻撃は刺突が中心になるが、振り回して敵を薙ぎ払ったり、斬りつけてダメージを与えるといった使い方も有効である。
剣 歴史と詳細(ツルギレキシトショウサイ)


 弥生時代中期から盛行した剣は、古墳時代中期まで実践的な武器として用いられるが、次第に片刃の大刀にとって代わられ、その後は儀礼用の神器としての位置が強くなる。

 中国では名剣に名前が付けられ、宝物として貴重品扱いされたが、日本の場合は単にそれだけでなく、武器は悪霊を祓う機能を持つものとして物心崇拝的な形で大変尊重された。これは、古代からの伝統で、以来、日本人の武器や武具に対する独特な思い入れのベースとして、脈々と生き続けてきた。特に剣というと神話、伝説にも多く登場し、なんとなく神がかった神秘的な雰囲気を持っている。

 『古事記』や『日本書紀』にもさまざまな剣の名前が登場するが、その一つに「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」がある。これは、景行天皇の御世にその皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に向かうときに、倭姫命(やまとひめのみこと)から拝受した剣である。途中、静岡県の焼津で賊の謀略に遭い火攻めにされるが、その時、この剣で草を薙ぎ払って難を逃れ逆に敵を滅ぼしたことから、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになったとされている。この剣は「八咫鏡(やたのかがみ)」、「璽=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」とともに三種の神器として天皇の御しるしとされるもの。ちなみに草薙剣は、現在熱田神宮の御神体になっているが、これに「大葉刈剣(おおばがりのつるぎ)」、「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」を加え、日本神話に出てくる三名剣などともいわれている。

 なお、剣の形は短刀などの様式に後世までも残り、また仏教の仏像用のものが江戸時代にもつくられている。
突棒(ツクボウ)
○構造と用途

 三道具の1つである突棒は、別名鉄鈀(てっぱ)、羽刊(うかん)、月剣、作振(さふり)、鉾などとも呼ばれている。袖搦と同じ造りの棒の先端に、鉄板を巻いた棒をT字形に取り付けたもの。横棒の寸法はだいたい30~40cmの範囲内。鉄板には鉄針が植え付けられていて、棒の両端には前方に向けて薙刀の切っ先状の鉄片が、刃を内側に向けて取り付けてある。これは横棒で相手を押さえつけたときに、しっかり食い込んで横に外されないようにするためである。

 突棒の使い方は、T字形の横棒を活用するのがポイントで、これを犯人の足や肩に引っ掛け、引き倒して取り押さえる。また犯人を追いつめた際に壁などに横棒を使って押しつけ、身動きできないようにしておいて縄をかける。

 この突棒と同じものが中国の『武備志』にも記されており、袖搦と同様室町時代に中国から伝来したものと考えられている。別名の鉄鈀の由来も、中国の長兵器「鈀(は)」からきたもので、有名な『西遊記』のなかで猪八戒が使っている九歯鉄鈀(きゅうしてっぱ)がそうである。攻撃にも防御にも威力を発揮した「鈀」の発展したものが突棒であると言える。

【て】

手楯(テダテ)


 手楯は持楯ともいわれ日本でも古くから使われてきた。『日本書紀』や『古事記』などに記載されている古代の楯の構造は、鉄や木で骨組みをし、そこに皮編物を張って漆で固め、彩色を施したものである。ほかに木製、または革で木を包んだものなどがある。形状は上部が山形になったもの、上下が広く中央部が狭いものなどがあり、単純な長方形のものは木製、楯の前面にゆるやかな反りのあるものは皮張製のもの。寸法は幅30~70㎝、高さ90~160㎝。素材は榎や楠が使われている。なお、奈良時代には鉄楯も作られており、中央部幅63㎝、高さ140㎝。鉄板を鋲留めする手法である。

 用法としては歩兵が持って刀や槍、長柄戦闘に用いたものである。奈良時代まではよく使われたようだが、平安時代になって大鎧に楯の機能が組み込まれ、両手で武器を操るようになると楯は姿を消した。全く用いられなかったわけではないが、使う方が珍しかったという。

 ちなみに『日本書紀』をはじめとする古い文献に登場する楯の名前には、神楯、百八十縫いの白楯、天磐楯、白楯、赤楯、黒楯、皮楯、鉄楯、などがある。名前からでも色や素材などがうかがえる。
手突矢(テツキヤ)
手に握って突き刺すことを目的とした小型武器で、鏃の形状が槍穂と同じであることから手突槍とも呼ばれる。

敵を刺撃するという機能が主になっている点では槍に近いが、打根、打矢などと共通の機能も持つ。

手突矢はもともと迫った敵を、矢を持って刺撃したり、投げつけるという技法から生まれた武器。

江戸時代に完成された形は、打根から羽を除いて小槍に似せた形状にしたもの。

矢柄の長さは特に決まった寸法はないが、だいたい60cm以内で、鏃はほぼ打根と同じ。

重さは70gくらい。
手突矢 歴史(テツキヤレキシ)
打根の用法は手裏剣に近いほうへと発展したが、手突矢は槍に近いもの。

使うときは片手で握り、小槍のように突き出し敵を刺撃する。

また、投槍の要領で投擲することもある。

短く、軽く、携行にも便利で狭い所でも自由に操作できることが大きな利点。

「太平記」には、因幡堅者全村という武将が大矢(長さ約90cm)を36本背負い、その矢で敵を突き刺して大いに奮戦したという記述がある。

その威力は鎧武者の胸の部分を守る栴檀の板を突き通し、背中へ抜けるほどであったとある。

江戸時代には攻撃的な武器というよりも主に護身用に用いられ、武士が外出するときの馬上や駕籠の中に携行された。
手鉾(テボコ)
手鉾は斬撃・刺突を目的とした武器。

正倉院遺物の手鉾は、短いもので全長約100cm、最長約145cm、柄の長さは約57~103cmと、人間の背丈よりかなり短いもの。

正倉院の手鉾は、鉾身の下部に反りをつけた形で、ほぼ直線のものから角度のきついものまである。

身の長さは約38~45cm以内。

平造りも切刃造りもあり、鋩が両刃に作られたものもある。

主に片刃で、先端部を薄く茎に近い部分を厚くつくっている。

柄は木を削ったもので、糸をよった緒で巻きしめ、石突に鉄製の金具を装着。

使い方としては、片手で持って突き刺すというだけでなく、薙刀のように振り回して用いたりしたと考えられる。

手鉾は正倉院に5口残っているだけで、他にはみられない。

様式としては 中国から輸入されたものと考えられ、奈良時代に使われた。

なお、源平・鎌倉時代、さらに下って戦国時代の文献にもその名が見られるが、後世のものは形状が大きく異なっている。

例えば、「義経記」に「身は一尺二寸ありける手鉾の蛭巻き白くしたるを」とあるのは、「春日権現霊式記」に描かれているような片刃でわずかに反った身を持った形式のもの。

柄の長さも2m前後と長くなり、槍の初源的なものといわれる菊池槍に似ていることから、鉾が槍の前身であるという根拠の1つになっている。
鉄刀(テットウ)
 鉄塔とも書き、、別名兜割、鉢割とも呼ばれる。もともとは武士が警固の役をするときに便利な、刀の代わりの武器として工夫したもので、発生は十手よりも古いと考えられている。外見的には、刀の形をした棒状または板状の鍛鉄に、鈎をつけたものである。

 長さは通常40~60㎝の範囲。外見的には把も鞘もつけなくて十手にそっくりなもの鞘だけをつけたもの、把と鞘の両方をつけたものなど多種多様である。特に、把と鞘をつけて腰刀の様式の鉄刀が用いられるようになったのは、江戸時代中期以降の傾向である。鉄身の部分の形状は、丸棒形、板状のほかに三角、四角、六角、八角などいろいろある。

 用法としては、相手が打ちかかってきたらこれで打ち払ったり、逆に打ち込んで攻撃に使うという、ほぼ十手と同様の役割を果たす。技術的には剣術の技をそのまま生かせるものなので、武士が護身用に携帯することも多かったようである。実際に、鉄刀の打撃効果は刀の峰打ちと同じ威力がある。また、身を守るだけならば、刀のように手入れの必要もなく、なおかつ安上がりの鉄刀のほうが便利だったのである。
鉄扇(テッセン)
鉄扇は骨の部分を鉄で作った折り畳みができる扇。

通常、鉄扇と呼ばれるものは3種に分けられる。

それは親骨と小骨が鉄で作られているもの。

親骨だけ鉄製のもの。

閉じた扇の形はしているものの、実際に開いて扇として用いることができないもの。

開くことが出来ないものは手ならしと呼ばれることもある。

日本では扇の歴史は古く、折り畳みできるものは日本独自のもので、鎌倉時代には中国に輸出されていた。

武器としては江戸時代になってから用いられ、知られるようになった。

 鉄扇(手慣・開閉式)は、鉄扇堂にて販売しております。

鉄笛(テッテキ)
鉄笛は鉄製の笛で、護身用の打撃武器。

吹くと音も出るので本来の笛として使うことも可能なため、敵を油断させることも出来る。

一種の隠し武器として近世まで用いられた。

鉄笛は笛ですので中空のため軽く、それにかかわらず折れにくいという特徴を持っており、攻撃だけでなく、他の金属製の武器を受けることもできる。

主に鉄笛と呼ばれるのは横笛式のもの。

笛には7個の孔のある横笛と5個の孔のある縦笛があります。7個の孔の笛は前漢の武帝の時に丘仲が発明したもの、5個の孔の笛は後漢の時に羌から伝わったものとされている。

鉄笛や飛饒など楽器から変化した武器がいくつかあるが、鉄笛のように実際に楽器として演奏ができるものと、ただ形を似せたものがある。

その例に、少林寺に鉄琵琶という外見を琵琶に似せた武器がある。

鉄笛は、鉄扇堂にて販売しております。
鉄鞭(テツベン)
 室町時代の警固六具として、「切子棒(吾杖)、鉄刀(鉄塔)、狼牙棒(袖搦)、鉄把(突棒)、長脚鑚(刺叉)」などとともに鉄鞭が上げられている。なので登場したものは戦国時代あたりと考えられる。江戸時代には捕物用というよりも主に警固用具として用いられた。長さは約85~11㎝の鍛鉄製で、握りの部分が太く(直径15~18㎜)、先端に向かって細く(直径5~8㎜)なっている。棒身には丸棒形、六角形、竹根様の節をつけたものがある。握りの部分は20㎝弱で、八角形にしたり藤や革を巻いて握りをよくし、棒の末端に穴をあけて丸紐や革製の手貫紐をつける。

 鉄製とはいえ細くて軽量なので、目にもとまらぬ早さで振り回すことができる。衝撃の効果の点でいえばみみず腫れか、皮膚が破ける程度のものであるが、痛撃の苦痛は相当なものである。特に素早く振ったときにたてるビュンビュンという音は、心理的に恐怖感を与え、威嚇としても大きな威力を発揮する。

【と】

巴型・静型薙刀 1(トモエガタシズカガタイチ)


所有者は巴御前、静御前。

○女武者の能

 能『巴』は、武者の霊が主人公(シテ)の二番目物(修羅物)で唯一、女性の役者がシテに扮する作品です。

 木曾(岐阜県南西部)から都(京都)へ向かう旅の僧の前に巴の霊が現れ、木曾義仲の回向(供養)を願うという物語のクライマックスで、緋威(ひおどし)の甲冑姿の巴は薙刀を振るいます。それは愛する義仲に潔く、自害を遂げさせるための時を稼ぐ為でした。この場面の薙刀さばきは史実か否かはともかく、巴御前の合戦場での華麗な武者ぶりが印象付けられる演出効果となっています。

 亡霊となりながら義仲の回向を願い続ける『巴』に対し、実在の巴御前はどのような生涯を送ったのでしょうか。

 追討の軍勢との戦いに敗れた義仲が自決した後、巴は形見の小袖と守り刀を携えて信濃へ逃れました。それから頼朝に捕らえられて命を落としかけますが、源氏方の有力武将である和田義盛に助命され、その妻となって91歳の長寿を保ったと伝えられています。

 なお、義盛に娶られたとき、巴は義仲の子を懐妊していました。生まれた子が剛力の英雄と名高い、朝比奈三郎義秀です。
巴型・静型薙刀 2(トモエガタシズカガタナギナタニ)
○白拍子の舞

 一方、義経の愛妾・静御前を主人公とするのが幸若舞曲『静』です。出生が明らかにされていない静を公卿の忘れ形見と設定した『静』をはじめ、謡曲『吉野静』に『二人静』と、軍記物の『平家物語』『義経記』『吾妻鏡』にも登場します。源平争乱に材をとったフィクションには欠かせないヒロインであり、とりわけ歌舞伎『義経千本桜』は白眉とされています。

 静御前といえば源平争乱の終結後、鎌倉は鶴岡八幡宮の社の前で義経への変わらぬ恋心をうたい、怒った頼朝の命で処刑されかかるも同席の北条政子に助けられたというエピソードがあまりにも有名です。たおやかな舞姫というだけではなく、意志の強さと死をも恐れない気丈さを感じさせる逸話といえるでしょう。

 静御前は生涯、悲劇と縁の切れない女性でした。しかし、常に控え目で悲劇性を帯びてるのが似つかわしい人物だからこそ、存在感が大きいのではないでしょうか。女武者として自ら積極的に前へ前へと出ていく姿がよく似合う巴とは好対照をなす、源平争乱の名ヒロインです。
巴型・静型薙刀 3(トモエガタシズカガタナギナタサン)


○争乱の渦中に咲いた徒花二輪

 源平争乱の登場人物は、猛き荒武者や権謀術数を弄する貴族といった男たちだけではありません。源氏と平家の興亡を題材とする一連の物語には、幾人もの魅力的な女性が顔を見せます。

 そんな源平の女たちの中でも、際立って存在感が大きいのは、やはり巴御前と静御前の2人でしょう。

 剛力無双の女武者と優美な舞姫、対称的ながらもいずれ劣らぬ華やかなイメージを持つ彼女たちですが、実は日陰の身でありました。

 源氏方には頼朝の正妻の北条政子、平家方には清盛の娘で、安徳天皇の生母である徳子(建礼門院)と権力者の身内としての女性たちも出てきますが巴御前は義仲の、静御前は義経の愛人であって正妻ではありません。自由であると同時に確かな後ろ盾のない、不安定な立場だったという点で図らずも共通する2人なのです。
巴型・静型薙刀 4(トモエガタシズカガタナギナタヨン)


○薙刀に冠せられた美名

 巴御前と静御前、この2人の名前は古来より、薙刀の二大仕様の呼称に用いられています。

 反りが大きく、剣尖に行けば行くほど身幅が広くなるのが巴型。そして反りが少なく、身幅が均一なのが静型です。

 源平争乱当時、薙刀は近接戦闘に有効な武具として、すでに普及しつつありました。しかし、巴と静の両御前が薙刀を愛用したという記録は存在していません。

 荒事とは無縁の静御前はともかく、少なくとも巴御前の場合には愛用していたとしても不思議ではないのですが、巴型・静型という呼称は、実際に彼女たちが用いた薙刀がこれこれこういう形をしていた、という意味でつけられているわけではないと考えられます。

 巴御前の美しくも逞しいイメージから生み出された刀身の薙刀に、まず「巴型」の名がつけられ、それとは対照的に優美一辺倒な薙刀を指して「静型」と呼ぶようになったのでは、と思われます。
弩 形状と用法(ドケイジョウトヨウホウ)


 西洋ではクロスボウと呼ばれて広く使われたもので、わが国には中国から輸入されたが、伝来についての詳細は定かではない。『日本書紀』の天武天皇元年(673年)の頃に弩(いしゆみ)の記述があり、その頃には唐から伝わっていたと推測される。わが国で使われた弩には、携帯に便利な攻撃用の短弩と大型で陣地に据えた防御用の長弩の2種類がある。

 短弩は手で持つ部分の臂(ひ)、臂にT字型に装着された弓である翼(よく)、弦を弾く機(き)の三要素で構成されている。臂は木製で矢を置くための溝が彫られている。翼は弾力性のある木を使い、機は鋳造された青銅製、弦は枲(からむし=種のつかない雄麻)をよった紐に蝋を塗ったものである。臂の長さは50~80㎝、臂と翼の比率はおよそ1:1.2~2.5。機の長さは9~15㎝。重さは3~10kgの範囲。

 使用法は、まず弦を引いて機の金具にひっかけ、溝の部分に矢を据えて弦につがえる。次に的を狙って構え、引き金を引くという手順である。弦の張力は普通160㎏ほどあり、弦を引くときには①手で引く方法、②足で弓を踏んで引く方法、③腰を使って引く方法、などがある。なお、弦を足で引くために、弩の先端部に「あぶみ」が取り付けられていた可能性もある。

 弩の性能に関しては、わが国に伝わったものとほぼ同形式で、中国の戦国時代(紀元前5世紀)に用いられたものは、最大射程810mに達していたという。ただし目標物を貫徹する有効射程距離は300~350mくらいだった。このように弩の利点は、なんといってもその長い射程距離と精度の高さである。戦場では敵が150mに接近した時点から発射し始めたというから、弓に比べはるかにその射程と威力が優れていたかがわかる。逆に短所は静止した的には命中率は高いのだが、動く標的に対して狙いが定まりにくく、精度がぐんと落ちてしまうところである。また連射が難しく、次の矢を装填するのに10~15秒も間隔があいてしまい、野戦においては非常に不利であった。
弩 歴史と詳細(ドレキシトショウサイ)


 弩は奈良時代末から平安時代初期まで用いられた。その間弩師の制も設けられ武器として使用することが奨励され、一時は軍団にも配備されて兵士に弩の発射訓練をさせたことが記録に残っている。『後日本書紀』には「承和二年(835年)、島木史真(しまぎのふひとしん)という者、新弩を製す。四面射るべくも回転して発し易し」とあり、連続して発射できる独自の弩を考案していたようである。しかしほとんど普及しなかった。

 弩が日本であまり流行しなかった理由は、弩の短所にあったと考えられる。威力はあっても次の矢を装填するのに時間がかかる弩よりも、矢継ぎ早に射る速射性に関しては、弓の方がはるかに優れていた。しかも弓は携帯するにも軽くて便利。当時の日本の弓矢の戦法は近距離に近づいて射るというものであり、弩ほど射程距離がなく命中率がよくなくてもよかったのである。それともう一つ大きな理由として考えられるのは、製作費と手間の問題だ。機械的な装置である弩は、製作日数も費用も弓に比べ何倍もかかった。そうした点も敬遠されて、弩はわずかな間だけ使われただけで廃れてしまったのである。
当世具足(トウセイグソク)
 「具足」とは十分に完備しているという意味である。つまり、当世具足とは、あらゆる防護機能が十分装備されている現代の鎧ということになる。戦国乱世の時代には、戦闘方法も槍を中心にした集団戦法が主体となり、以前の時代よりも一段とスピード化される。さらに、鉄砲が登場すると、それに対応するように改良工夫された鎧兜がつくられるようになった。そうした背景をもって誕生したのが当世具足である。

 当世具足の基本形式となっているのは、大鎧を軽快にした胴丸形式である。大鎧や胴丸は、重装備で重いものだが、その割に顔面や膝などの脚の部分が無防備そのものだった。そこで当世具足は顔面には面具を装備し、膝の部分には佩楯(はいだて)を具足して、文字通り隙間なく完全武装した。なお、佩楯は膝鎧のことで、大腿部から膝上を覆う部分防具として当世具足には必ず用いられている。以上の点から、当世具足の特徴を一言でいえば、防御性も高く、しかも大鎧に比べてはるかに軽く機動性があるということになる。

 また、使用者の好みに応じて材料も各部の形式も、自由な組み合わせによってつくられているところが、当世具足ならではの特色と言えるところである。それだけに鎧の種類は非常に多く、装飾的に意匠を凝らしたものもあれば、とにかく目立たせるために、実用的な効果が疑われるほどに個性的なものまである。これはサバイバル戦を生き残ろうとする戦国武将のバイタリティ、あるいは鎧兜を誇示することによって自己の存在を主張しようとする精神の表れでもあった。

 
当世具足 2(トウセイグソクニ)


 当世具足の胴の特色は、槍や鉄砲の攻撃に対応する防御性能を高めるために、それまでの小札に代わって幅の広い鉄板を用いるようになったことだ。たとえば、細長い1枚鍛の鉄板を使って、それを素懸威(すがけおどし)または葵綴にして上下連結したもの。これに当たるのは最上胴である。また、同様の横板を鋲で留めて構成したものもあり、桶側胴と呼ばれる形式がこの手法で作られている。それからさらに簡略化が進んで、一枚の鉄板を打ち出して前胴、後胴を構成し、それを蝶番でつないだ2枚胴がある。この形式は仏胴と呼ばれるものに見られる。さらに、前胴、後胴、左胴と右胴2枚というふうに鉄板を5枚に分けて作る五枚胴という形式もある。この形式は最上胴、桶側胴にもみられる。

 もうひとつ、当世具足のユニークな特色としてあげられるのは、当時わが国に輸入された西欧甲冑、いわゆる南蛮具足が用いられたりしたことである。和製南蛮胴などはまさにそれをまねて制作したものであり、仏胴の1枚鉄打ち出しの手法も、南蛮胴に影響を受けて工夫された。
当世具足 仏胴具足について(トウセイグソクホトケドウグソクニツイテ)


 仏胴は、胴の表面が滑らかで矧ぎ目がなく、1枚板で作られているような形式をいう。代表的なものは南蛮胴の影響を受けた2枚胴の形式で、前胴、後胴をそれぞれ1枚板で打ちだす。それを左脇で蝶番を使って連接し、開閉を自在にして装着を容易にしている。

 ただ、上記のような1枚打ち出しは少なく、多くは内側が縦矧ぎまたは横矧ぎの桶側胴で、その上を革で覆ったり、漆塗りして1枚板のように見せたものである。この手のものを包仏胴という。胴が滑らかだけに黒漆や朱漆だけでは変化がないため、蒔絵をしたり、彫金物を打ちつけたりして装飾性を加えるのが普通であった。

 以上のほかによく使われる形式に5枚胴がある。製造技術的にみると、大きく幅広い鉄板を鍛えて加工する2枚胴よりも、それをさらに分割して5枚にした方が比較的簡単に加工できる。そのためこの形式の胴は結構広く用いられていた。特にこの5枚胴具足を好んで用いたことで有名なのが伊達政宗である。伊達家では、家臣の具足をはじめ下級の者が使う御貸道具まで、この形式でつくらせたという。そのため、江戸時代には仙台胴、奥州胴などとも呼ばれていた。
当世具足 南蛮胴具足について(トウセイグソクナンバンドウグソクニツイテ)


 天文年間(1532~54)の頃は、西洋人との接触によって武器、防具などに大きな変化がもたらされた。そのなかに南蛮胴と呼ばれる西欧甲冑もあり、鉄砲の弾にも耐える堅固な構造が、当時の武将たちに大いに歓迎された。前胴、後胴がそれぞれ鉄の1枚板でつくられている2枚胴形式で、左側に蝶番がついて2枚をつないでいる。前胴は継ぎ目なしの滑らかな面で、中心が高く盛り上がって縦に鎬状を形成。これは鉄砲玉や槍の刺突攻撃などを左右に滑らせてそらす工夫である。この胴を日本の具足に用いる例もよくあったが、その場合は胴の下に草摺をつけ、背の部分には「がったり」「受筒」「待受け」など旗指物を差すための装置を取り付けた。また、兜にも𩊱(しころ)をつけるなど、日本的改造を加えている。鎧の性能としては非常に堅牢で、敵の攻撃によるダメージを軽減するには大変有効だった。しかし、問題は重量があることで、かなりの剛の者でないと着こなすのが大変だった。

 当時輸入された南蛮胴は、数量としてはわずかなものだった。しかも、体格的に日本人には合わない点が多かった。そこで、南蛮胴をまねて日本人好みに改良を加えた鎧がつくられた。それが和製南蛮胴で、江戸時代には、胴の中心が盛り上がっている外見から、鳩胸胴とも呼ばれた。
当世具足 桶側胴具足について(トウセイグソクオケガワドウグソクニツイテ)


 当世具足の基本の胴として一番多く用いられている形式である。素材は鉄板製、練革製がある。鉄板と鉄板を矧いで連接させる方法で、鋲を使ったものを鋲綴胴といい、仕上げ方は鋲をそのまま見せる方法と、「平カラクリ留」といって鋲を平らに潰して目立たなくする方法の2種類がある。ほかに糸や革を使った葵綴胴、畦目綴胴(うねめつづりどう)がある。従来の小札威しの方法では、重量も重くなり、コストもかかった。その点、この胴は比較的軽く、幅広の鉄板であるため堅固で、鉄砲玉に対しても効果があった。
当世具足 畳具足について(トウセイグソクタタミグソクニツイテ)


 骨牌(かるた)形の骨牌札や亀甲形の亀甲札などを縦横に並べて、鎖輪で連接して構成してある具足を畳具足と言う。鎖でつないだ部分の動きが自在で、折りたたみが可能であることから「畳める具足」の意味でこの名がつけられた。札をつなぎ合わせて具足を仕立てる方法は色々とあるが、一般的なのは家地(布)に糸で綴じつけるという方法である。畳具足の兜は、頭巾型と提灯兜の2種類。さらに、付属する装具として籠手、佩楯、臑当が用いられている。なお、鎖を用いた防具というと、すぐに総鎖の鎖帷子がイメージされるが、鎧として用いる場合は札が主で、鎖はあくまでもつなぎの役目である。総鎖にして充分な防護機能を持たせた場合は、むしろ重くて不便なものになる。
投弾帯(トウダンタイ)
投弾という呼び方は考古学において名付けられたもので、それとは別に日本では古くから投石を表す言葉として「つぶて」がある。

飛礫あるいは礫と書いて「つぶて」と読むが、古くは「印地」「印地打ち」「石投げ」「石打」「投石」「石戦」「石合戦」等様々な呼び方もされていた。

武田信玄率いる武田軍団には、よく訓練された石投げ隊が編成されていた。

徳川家康を敗走させた元亀3年(1572)の三方原の戦では、足軽300人で構成された石投げ隊が、陣形が不利とみて開戦を控えようとしていた徳川軍を投石によって挑発。

その石にあたって負傷した徳川軍は逆上し、制止命令を無視して武田軍に突っ込んで行った。

信玄はその乱れを冷静に見極めて、徳川軍を散々に打ち破った。

江戸時代の有名な島原の乱(1638)でも、徳川幕府軍が原城に立て篭もった天草一揆農民の投石によって、多くの負傷者を出したことはよく知られている。

宮本武蔵も小倉藩士として戦闘に参加し、投石を足に受け負傷している。
投弾帯 歴史(トウダンタイレキシ)
投弾は弥生時代前期から中期にかけて使われたもので、弓矢と並んで強力な兵器として用いられていた。

それ以前、自然石による投石は縄文時代から行われていたと考えられているが、投石具をともなった投弾という形式は存在しなかった。

ところが弥生時代になって突然現れる。

それも九州を中心とした西日本で主に用いられた。

そのことから投弾は日本独自のものではなく、大陸あるいは南方から伝来したものと推測される。

弥生時代以降投弾はすたれるが、投石は武器として用いられ続け、今日に至っている。

投弾帯は、投石具、投石器あるいは投石帯、投石縄、袋状投石器等様々に呼ばれる。

投弾自体は弥生時代後期にすたれてしまったが、投弾帯の形式は生き残る。

それは戦闘用武器というよりも、河原の石合戦などの遊戯や競技、習俗のなかで用いられる道具としてだった。

その名前も中世以降「石ぶん」「石もっこ」「ぐい投げ」「雁殺し」など、地方によって様々に呼ばれた。

投弾帯は石投げの発展形態として、世界各地の古代社会において有力な武器として用いられた。

紐の材料も民族や地域特性によって異なり、毛糸、皮革、腸、毛皮、毛髪、植物繊維などで作られている。

日本では投石器が軍陣用として高度な戦闘部隊を構成するという発展形態はみられないが、古代ギリシア・ローマの時代にはそれがみられる。

投弾帯の威力を知る参考にここで紹介する。

ドイツの考古学者M・コルフマンは、西洋や中近東では投弾帯が青銅器時代から中世(17世紀)まで、軍隊の世紀武器であったと報告している。

メソポタミア、ペルシア、ギリシア、ローマでは、投石兵の地位は射兵と対等だった。

ギリシア軍の軽装隊は投石隊、投槍隊、弓隊で構成され、その投石兵の技術は高く、ペルシャ兵の2倍の射程距離を誇っていた。

実際の射程距離はどのくらいかというと、彼らは長・中・短射程用の投弾帯を機に応じて使い分けた。

また、投弾も土弾、石弾、鉛弾などで、到達距離は通常350~450mといい、実に矢(約180~200m)よりもはるか遠くに飛んだ。

熟練した投弾手になると200m先の直径1mの標的に弾を命中させることが出来た。
投石について(トウセキニツイテ)
投弾という呼び方は考古学において名付けられたもので、それとは別に日本では古くから投石を表す言葉として「つぶて」がある。

飛礫あるいは礫と書いて「つぶて」と読むが、古くは「印地」「印地打ち」「石投げ」「石打」「投石」「石戦」「石合戦」等様々な呼び方もされていた。

武田信玄率いる武田軍団には、よく訓練された石投げ隊が編成されていた。

徳川家康を敗走させた元亀3年(1572)の三方原の戦では、足軽300人で構成された石投げ隊が、陣形が不利とみて開戦を控えようとしていた徳川軍を投石によって挑発。

その石にあたって負傷した徳川軍は逆上し、制止命令を無視して武田軍に突っ込んで行った。

信玄はその乱れを冷静に見極めて、徳川軍を散々に打ち破った。

江戸時代の有名な島原の乱(1638)でも、徳川幕府軍が原城に立て篭もった天草一揆農民の投石によって、多くの負傷者を出したことはよく知られている。

宮本武蔵も小倉藩士として戦闘に参加し、投石を足に受け負傷している。
捕物の三道具(トリモノノミツドウグ)
 三道具(みつどうぐ)というのは、長柄仕寄具のうちの袖搦、突棒、刺叉の3種のことである。それぞれ長柄の先端部分につく金具の形状に固有の特徴を持っているが、柄の部分に関しては3種ともだいたい同じ形状をしている。素材は樫の丸棒で、長さは6尺以上9尺(約182~273cm)前後。通常、柄の上部40~60cmの間に、2~3cmの鉄針を数10個植えた鉄板をかぶせ、相手が手でつかめないように、しかも刀で斬り折られないように強化処置が施してある。また、鉄針を植えず単に鉄板だけのもある。

 三道具は奉行所、番所、関所、代官所などに庶民への威嚇として飾られていた。こうしたいわば飾りものは、一般に強化処置を施した部分が短めである。捕物に使われる実用的なものは、鉄板部が60cm前後から長いものでは1mくらいのものもある。柄の末端には鉄製の石突が取り付けられている。

 三道具は、室町時代中期ごろから「警固六具」(後の3つは寄棒、早縄、松明)に数えられ、警戒、護衛用の道具としてよく用いられてきた。そうした用途がそのまま引き継がれて、江戸時代の主要な捕物用具として位置づけられた。ただ、実際に捕物に使われたのは江戸時代初期までで、それ以後は主に取り締まる側の威厳を示すためのシンボル的な役割になった。三道具が使われるのは、磔(はりつけ)や火罪などの重罪人の処刑前の市中引き廻しの行列だとか、晒(首)・獄門の刑場の威嚇的な飾としてだった。

 実際に使われた捕物道具とは何かといえば、いわゆる「捕手の三道具」と呼ばれた十手、万力鎖、鼻捻が、もっとも実用的な道具だった。ただ、これも京都・大坂の上方と江戸・関東方面では多少異なっていたようで、万力鎖は上方でよく使われ、関東ではいわゆる六尺棒(寄棒)が通常の捕物には必ず使われた。
童子切安綱・蜘蛛切 1(ドウジギリヤスツナクモギリイチ)
所有者は源頼光(みなもとのよりみつ)。

○源氏の嫡流、鬼を斬る

 源頼光(948?~1021年)は、清和天皇に連なる源氏の嫡流です。源満仲の嫡男に生まれた頼光は、摂津源氏の祖となって摂関家(藤原家)との関係を密にし、清和源氏全体の発展に多大な貢献を果たしました。

 頼光の勇名が世にあまねく知られるの至ったのは、能『大江山』に取り上げられた、酒吞童子退治の伝説によるところが大きいでしょう。

 それでは『大江山』のストーリーに則して、頼光と酒吞童子の息詰まる戦いの様相をご紹介します。

 丹波は大江山に巣食い、洛中に出没しては女をさらっていく鬼神・酒吞童子を退治せよとの勅命を奉じた頼光は、一族郎党の50余名を引き連れ都を発ちました。

 山伏に身をやつし、武具を葛(つづら)に隠して背負った頼光とその一行は、童子の侍女にされていた都の女の手引きで館への侵入を果たします。人肉を食らう童子も出家には手を出さないと、頼光は知っていたのです。人間の姿で一行を出迎えた童子は、館の場所を余人に知られたことを嘆きつつ、くれぐれも他言しないようにと念を押したうえで歓待し、自らもしたたかに大酒を飲んで熟睡してしまいます。かくして、鬼退治のお膳立ては整いました。

 寝所に攻め込んだ頼光たちの正体を知り、怒り狂って鬼の正体を現した童子は反撃を目論みますが、酒が回ってしまっていて動くに動けません。頼光は抜かりなく、童子の酒に毒を仕込ませていたのです。頼光は太刀を振るって童子の首を打ち落とし、都へと凱旋していきました。

 このとき、頼光が用いた太刀が大原安綱でした。後に童子切安綱の異名を冠せられ、天下五剣の筆頭にも挙げられた稀代の名刀です。

 作刀者の大原安綱は平安時代初期、大同年間(806~810年)に大原一門の祖となった刀工で、伯耆国(ほうきのくに)安綱とも呼ばれます。息子の眞守(さねもり)を始めとする大原一門は、伯耆(鳥取県西部)で大いに栄えました。

 童子切安綱の刀身は実測80㎝、反り2.7㎝。

 刃長も反りも申し分のない、まさしく威風堂々たる太刀姿です。

 酒吞童子が存在したか否かの真偽の程はともかく、鬼退治の名刀という代名詞に恥じない、天下の一振りと断言して差し支えないでしょう。
童子切安綱・蜘蛛切 2(ドウジギリヤスツナクモギリニ)
○蜘蛛退治の名刀

 頼光にゆかりの名刀は、もう一振り存在します。その名を「膝切(ひざきり)」といいます。

 源氏重代の宝剣として、「髭切(鬼切)」と共に鍛えられ、童子切安綱と同じく頼光自らが化物退治に振るったと伝えられる剛剣です。

 屋代本『平家物語』剣巻によると、頼光が病で伏せっていた夜、身の丈7尺(約210㎝)の巨漢が突如として寝所に現れ、縄で絞め殺そうと襲いかかってきました。

 すかさず、頼光は枕元に置いていた膝切を取って一閃させました。

 平安の世の夜ともなれば、当然ながら周囲は闇に包まれています。手応えを感じた頼光が、灯火の下にこぼれていた血の跡を頼りに辿っていくと北野神社へと出ました。血の跡は塚穴のところまで続いています。掘り返させると中から巨大な土蜘蛛が見つかったので、すかさず搦め取って仕留め、事なきを得ました。頼光に向かって放たれた縄は、化け物が吐いた蜘蛛の糸だったのです。かくして退治された大蜘蛛の死骸は鉄の串に刺し貫かれ、河原にさらされたといいます。以降、膝切は「蜘蛛切」と称されるようになりました。

 この大蜘蛛退治の伝説は、翻案されて能『大蜘蛛』となり、明治の世を迎えてから歌舞伎舞踊『土蜘(つちぐも)』が作られました。能の『土蜘蛛』において頼光は膝切(作中では膝丸)で初太刀を浴びせるにとどまり、北野神社(作中では葛城山)まで土蜘蛛を追い詰め、斬り伏せるのは駆け付けた独武者(ひとりむしゃ)の役どころとなっています。

 その『土蜘蛛』を基に河竹黙阿弥作詞、3世杵屋正次郎作曲で明治14年(1881年)6月に東京新富座にて初演された『土蜘』においても、化物退治をするのは頼光本人ではなく、渡辺綱(わたなべのつな)らの頼光(らいこう)四天王でした。主人に代わり、四天王が活躍するという設定は御伽草子絵巻『土蜘蛛草子』に一致しています。頼光自らが病の身で化け物を追うよりも、むしろリアリティーのある設定といえるでしょう。
童子切安綱・蜘蛛切 3(ドウジギリヤスツナクモギリサン)
○全ては都の安寧のために

 鬼に大蜘蛛と、この世のものではない化け物相手に互角以上に渡り合った一連の伝説は、まさに絵に描いたような英雄譚です。

 しかし、ここで現実に則して考えてみましょう。

 いかに1000年を超える過去の出来事とはいえ、これほどまでに魑魅魍魎が洛外に跋扈(ばっこ)していたとは、さすがに考えにくいでしょう。

 もちろん、頼光と四天王を始めとする家臣たちが、都に害をなす存在を駆逐したのは間違いないでしょう。いかに伝説とはいえ、全く事実無根な事柄を取り上げることはありえないからです。

 それでは、頼光たちは何者を退治したのでしょうか。

 頼光が登場するよりも遥か以前、それこそ神代の時代から、歴代の朝廷は都の安寧を守るために多数の軍団を擁していました。東北征伐の任を担った征夷大将軍・坂上田村麻呂の昔から続く伝統は、朝廷に歯向かう者が残らず平らげられてからも存続し、洛外からの侵入者を徹底して阻みました。頼光が安綱で斬った相手は鬼などではなく、幻術を遣う山賊だったとする説が後世に唱えられていますが、都の安寧を冒す者という一点で括れば、相手が鬼であれ生身の人間であれ問題ではなかったのです。

 神代の時代、洛外の地の高尾張邑(たかおわりのむら)には土蜘蛛と称された土着の民が存在していたと「神武紀」(『古事記』中の一節)に書かれています。つまり、頼光の大蜘蛛退治の伝説は平安時代にリアルタイムで起こったことではなく、過去の出来事に依拠して作られたものと見なすことができるのです。

 神武天皇の征伐後、高尾張邑を改め葛城となった地には、かつて土蜘蛛と呼ばれていた人々のおびただしい血がしみ込んでいる、という事実を考え併せると、大蜘蛛の無残な骸が河原にさらされたという『平家物語』剣巻における記述が、にわかに生々しいまでの現実味を帯びて迫ってきます。古い文化が排除されて新たな社会体制が築かれ、時を経て、また同じことを繰り返すのが人の世の常とはいえ、暗澹たる思いに駆られずには居られません。
胴丸 1(ドウマルイチ)


○構造と性能

 胴丸は大鎧と同世代の平安時代中期に登場したものである。大鎧は大型で騎馬の武将が着用するものであったが、その一方で徒歩の一般武士、従卒用に簡略化した軽快な鎧として作られたのが胴丸である。構造的には小札を使った上代の裲襠式桂甲(りょうとうしきけいこう)から発展したものと推定される。その構成は前立拳2段、後立拳3段、長側4段(3段の場合もある)、草摺は8間5段下がり、引き合わせは右脇というのが一般的な形式。大鎧に比べると脇盾は用いず、草摺は歩きやすいように細かく8枚(間)に分け、肩から上腕部にかけては杏葉(ぎょうよう)形の金具廻りをつけて防護している。杏葉は長さが約14㎝。

 発生した初期のころはもっぱら下級、中級の武器の着用するものだったが、兜は着用するときもあり、しない場合もあった。後世になると身分の高い武将にも用いられて兜や小具足も装備するようになり、戦国時代には当世具足の一種として発展する。胴丸の利点は何よりも装着が簡便なことだ。大鎧が騎射戦用に合理的なフル装備として作られているのに対して、胴丸は略装で軽快に走り回れるような機能性をもっているところが大きな特徴である。

 また、フル装備の大鎧は豪壮華麗になればなるほど費用もかかり、一説には現代のお金で2000万円とも3000万円とも推定されている。それに対してこの胴丸をはじめ腹巻、腹当といった簡易形式の鎧は、はるかに安い費用で製作できる。胴丸は一般兵士なので数量も多く必要になる。その意味で、制作も比較的簡単で安く、大量生産が可能であるということは大鎧に比べて大きな利点であった。
胴丸 2(ドウマルニ)


○歴史と詳細

 平安時代末期の模様を伝える『平治物語絵巻』や『後三年合戦絵詞』に描かれている胴丸鎧をつけた武者はだいたいが徒歩兵で、すねには脛巾(はばき)だけで臑当はなく、裸足である。このように文献からみる限りにおいては、胴丸鎧は下級武士の着用するものだったことがうかがえる。ただ、当時の戦闘形態からみるとき、大鎧を着用する武将と胴丸を着用する下級武士、つまり徒歩兵の役割は一対だった。最初に戦闘の中心となるのは騎射だが、最終段階では徒歩兵が駆け回って敵と格闘したりとどめを刺したりする。この徒歩兵は後世になるとさらに足軽集団へと発展し、その役割が重要になっていく。以上のような背景を考えると、戦場における胴丸の役割は相当に大きかったともいえる。

 最初のころは徒歩の下級武士が用いるものだった胴丸だが、その軽快さが便利がられ手次第に上級の武士も用いるようになる。特に、南北朝時代から室町時代にかけて最盛期を迎える。このころになると兜や袖、小具足なども装備されるのが普通になる。このように時代が進むにしたがって胴丸は単なる簡便な武装から、重武装化した独自の地位をもってくるわけだが、この背景には戦闘形態の変化がある。騎射を主としたものから接近戦と集団線が盛んになり、騎乗にも徒歩にも便利な胴丸の形式が好まれるようになったのである。

な行

【な】

なえし(ナエシ)
 なえしの外見は、十手の鈎を取り除いた形状である。基本的には十手とは区別される捕具であるが、ほとんど十手代わりに用いられる。その語源は、「鍛えた棒」の意味、または「打つと相手を萎えさせる」ということからきているといわれている。長さ20~40㎝くらいの鋼鉄製の棒で、握柄の末端に鉄輪がつけられている。鉄輪はくるくる回転するようになっており、これに約1mの長さの紐が二重にして結んである。

 棒身の断面は、円形、隈取四角形、五角形、六角形などで、先の太いものや逆に細くなっているもの、中央が細く両端が太くなっているものなどいろいろである。握る部分は一般に何も巻かないが、なかには革紐、糸、藤巻きしたものがある。

 なえしは隠し持つのに便利なぶきで、与力、同心なども隠密行動のとき隠し武器としてよく用いていた。また、正式な捕具ではないので、目明しの親分が私物として作り、自分の配下の手下(てか)に持たせた。十手術を心得た与力・同心と違い、下級の者の用途は主に危険が迫ったときに、びゅんびゅんと振り回して逃げるといったものだった 
波泳ぎ兼光・鉄砲切り助真 1(ナミオヨギカネミツテッポウギリスケザネイチ)


所有者は上杉謙信。

○刀は切れる

 当たり前のことですが、刀は切れるものです。

 ごく簡単な言い方をすれば、重さが刀身だけでも1kg前後に達する剃刀です。

 鋭利極まりない刃にそれだけの自重が備わっているとなれば、わずかに刃先に触れただけで傷つくのは当然で、扱いに慣れた者が振るえば恐るべき威力を発揮しても、全く不思議ではありません。

 切れ味の鋭い刀を利刀(りとう)と呼びます。ただえさえよく切れる刀の中でとりわけ優れているといわれる以上、その鋭さが並々ならないのは言うまでもないでしょう。

当然ながら、付随して伝えられるエピソードも往々にして現実離れした内容になりがちですが、なまじ鈍刀を巡って大げさな逸話が作られたり、切れ味の鋭さが世に喧伝されるはずがありません。

 真に優れた刀なればこそ、賛美する伝説も自ずと生まれると考えるべきでしょう。

 それでは、利刀伝説を具体的に見ていきましょう。
波泳ぎ兼光・鉄砲切り助真 2(ナミオヨギカネミツテッポウギリスケザネニ)


○切れ味の鋭さを物語る民間伝承

 古来より、刀にまつわる民間伝承には、切れ味の鋭さが強調されたエピソードが数多くあります。とりわけ有名なのが「波泳ぎ」の異名で知られる、上杉謙信の愛刀・備前長船二代兼光(びぜんおさふねにだいかねみつ)です。

 謙信は備前刀好みの武将でした。最も好んだのは兼光一門の祖に当たる長船長光で、かの川中島の合戦で敵陣に単身突入し、好敵手の武田信玄と渡り合ったとの伝説に出てくる「小豆長光」をはじめ、選りすぐって蒐集した長光の数は、計5振りに及んだといいます。

 さて、波泳ぎ兼光に戻しましょう。

 詳細は定かではありませんが、戦前の国定教科書に掲載されるほど有名だったという波泳ぎ伝説によると、斬られた者が川に飛び込み、向こう岸まで泳ぎ着いてから首が落ちた、または真っ二つになったとのことです。民間伝承として世間に流布した波泳ぎ伝説の真偽は定かではありませんが、異名の由来は刀剣研究の第一人者である福永酔剣氏の唱える、鎬地の竜の彫物が波間を泳いでいく姿を連想させるため、とする説が正しいと言えるでしょう。なお、謙信は同じく二代兼光が手掛けた「竹股兼光」も愛蔵していました。

 波泳ぎ兼光は謙信の没後、羽柴中納言秀勝を経て、立花宗茂の手に渡りました。宗茂は過酷な乱世の生存競争に打ち勝ち、幕末に至るまで家名を存続させた戦国大名の一人です。

 代々の立花家当主は波泳ぎ兼光を秘蔵し、刀剣趣味で有名な8代将軍吉宗が上覧を所望した折にも、研ぎの最中と申し立てて断ったといいます。
波泳ぎ兼光・鉄砲切り助真 3(ナミオヨギカネミツテッポウギリスケザネサン)


○合戦場で猛威を振るった鉄砲切り

 もう一振り、上杉謙信にゆかりの利刀とご紹介します。

 「鉄砲切り」の異名を持つ、鎌倉一文字助真作の大脇差です。

 先述した小豆長光と竹股兼光についても同様のエピソードが伝えられていますが、この助真作の大脇差こそが真の「鉄砲切り」と見なされる理由は刀身の短さにあります。

 脇差とは、刀身が2尺(約60㎝)以下の刀剣を指します。

 そこで助真作の大脇差はと見れば、1尺9寸4分(約58.2㎝)。

 脇差としては長いために大脇差と呼ばれるのですが、これはもともと2尺以上の太刀だったのを磨り上げたものです。

 刀身の短縮加工を意味する磨上げは、ふつう茎(かなご・刀の柄に入る個所)の部分から切断して縮めていきます。

 とはいえ、不慮の事故で刀身の先が折れてしまった時などには、剣尖から磨り上げていくこともあり得なくはありません。

 鉄砲を断ち切った結果として刀身が損傷し、それを修繕した結果、太刀が大脇差に化けたとしても不思議ではないでしょう。

 謙信の鉄砲切りは川中島の合戦ではなく、信州(長野県)に軍を進めたときのことだったとされています。

 近臣を一人連れただけで自ら巡視に出た謙信は、陣地のすぐそばまで忍び寄っていた敵方の武者を目ざとく見つけて、一刀の下に斬り伏せました。刀傷は肩先から腰にまで達し、死骸の傍らには鉄砲が真っ二つになって転がっていたといいます。

 一軍の将にして確かな刀槍の技量を備えていた、上杉謙信の質実剛健な武者ぶりを彷彿とさせるエピソードです。

 これが創作であれば刃こぼれひとつなかった、としたくなるのが書き手にとっても読み手にとっても人情でありましょうが、折れた分だけ磨り上げて太刀だったのが大脇差になった、と解釈するほうが、遙かにリアリティがあっていいでしょう。
薙刀(ナギナタ)
○形状と用法

 古くは「長刀」と書いたように、長い柄の先に反りのある刀を付けた形が大きな特徴である。日本の長柄武器の代表的な形式の一つであり、鎌倉時代から室町時代末期まで、強力な長兵器として戦場で用いられ、威力を発揮した。

 薙刀の長さには特に規準はないが、一般的な寸法は、刀身の長さが約70cm。柄の長さについては『兵具雑記』などの文献に、人が立って地面から耳の下くらいのものが標準とされているので、だいたい120~150cmということになる。ちなみに、これを定めたのは、鎌倉北条氏を攻め滅ぼした新田義貞という説もある。刀身は頑丈な菖蒲造り(鎬造りで、鎬が切先までのびてショウブの葉のようにみえる造込形式)で、柄は樫を削った白柄や打柄が用いられている。さらに、これに細い銅か鉄板を螺旋状に巻きつけた蛭巻の柄などもある。

 薙刀は、武術としては剣、槍、棒を兼ねるものともいわれている。そのため用法も、右手前、左手前と素早く変化し、斬る、薙ぐ、払い上げる、突く、さらに石突で打つ、払う、などの多種多様な技術がある。要するに、槍のように突き、刀剣のように斬り、しかも間合は長短変幻自在、上下左右から斬りつける、という具合に非常に攻撃的な武器である。

 南北朝時代の戦場において、豪勇の者が薙刀を振り回して、敵をバッタバッタとなぎ倒す派手な様子が『太平記』などにも描かれている。それだけで兵器として強大な威力を発揮したということだ。また、雑兵などの徒歩兵が持つ場合は、騎馬武者に従って戦闘体形を取り、敵の騎馬の脚を薙ぎ払って落馬したところを斬りつけるといった具合に、騎馬戦においても大変有効だった。
薙刀 歴史(ナギナタレキシ)
○歴史と詳細

 文献上に薙刀らしき武器がみられるのは、源義家(1039~1106)が欧州の清原一族を討ったときのことを記した『後三年記』で、そのなかに亀次と鬼武の長刀の試合のことが出てくる。つまり、少なくとも平安中期には既に薙刀らしい形式の長柄武器が使われていたことは確かである。その発生は定かではないが、起源は奈良時代の柄の短い手鉾からの変遷ではないかと推測されている。つまり、彎刀が出現すると突くだけの鉾身の代わりに、突くことも斬ることもできる反りを持った刀身を柄の先に取りつけるようになった、ということが有力な説といて考えられている。

 源平争覇期になると、絵巻物にしばしば薙刀がみられるようになるが、この頃のものは比較的反りの少ないものである。鎌倉時代の薙刀は徒歩(かち)兵や僧兵の主要武器であった。当時は刀身の長さに特に規格はなく、柄は後世のものよりやや短めの、約80~100cm内外のものが多く使われた。その後、刀身がだんだん長く大きく反った形状になり、南北朝時代には約200cmもある大薙刀が登場している。そのため、刀身の長さ2尺3寸(約76cm)以上を大薙刀、それ以下を小薙刀と分けて呼ぶようになった。戦場で大いに活躍していた当時の一般的な大薙刀は、柄が約150cm、刀身も約150cmというものである。また、小薙刀は全長106cmくらいである。

 南北朝時代につくられた大薙刀は後世、茎をつめて適当な長さに磨き上げられ、刀や脇差しに直されて使われたりした。そのため元の刀身がそのまま現存する例が非常に少ないのである。こうした使い回しができたのも薙刀の特徴といえる。その理由は、槍は両刃で反りをつけない独自の鍛錬技術であるため、槍専門の鍛冶が存在したが、薙刀や長巻は、刀剣と鍛造法が同じなため刀鍛冶によって製造されていたというところにある。
薙刀 歴史2(ナギナタレキシニ)
 

 戦国時代になると薙刀による騎馬戦よりも、槍による集団戦が中心になったため、薙刀は戦場の主要武器の座を下りた。といっても、もちろん兵器としては用いられ続けるが、江戸時代の武士が用いる長柄武器はもっぱら槍が主となる。その一方で、薙刀は女子の護身術として用いられるようになり、武家の子女の特技となった。槍は明治の近代的な軍隊の兵器からはずされると一気に衰退してしまうが、薙刀は江戸時代の女子の護身の武術から発展してスポーツとなり、現代でも多くの競技人口を誇っている。このあたりも歴史の織り成す綾の面白さといえるだろう。

 武術としては戦国時代末期以来多くの流派が生まれ、その主なものに穴沢流、一心流、直心影流、新当流、先意流、天道流、正木流、無相流などがある。そのなかには現代でも武道として盛行している流派もある。ちなみに、稽古用の薙刀は、全体が樫材で作られ、刀身が1尺(33cm)、柄が6尺(198cm)という形式で、重さは2kgくらいある。
長巻(ナガマキ)
○形状と用法

 外見が薙刀とよく似た形状の武器だが、登場した時期ははるかに新しく室町時代に流行した武器である。元来、野太刀(鎌倉時代末から戦場で使われるようになった刀身が約115cm以上の長大な太刀)に、長い把(つか=柄)をつけて間合を長くしたもので、薙刀と比較すると刀身が長大で、柄が短く、鍔がついているのが長巻の特徴である。その長い柄を鞣革(なめしがわ)などで巻き締めたことから、この名で呼ばれるようになった。

 戦国時代の長巻は、全長が約180~210cm。柄は約100~130cmで、革や組紐で菱形紋様に巻しめ、柄の末端には石突もつけられている。刀身は初め太刀が使われたが、のちには専用の刀身が作られるようになる。長さは90cm前後で、太刀よりも身幅が広く、重量もおよそ7kgとかなり重いものである。

 戦場では両手で持って振りまわし、騎馬兵の馬の脚を薙ぎ払ったり、騎乗の武者の脚を斬ったりした。用法としてはほぼ薙刀と同様と言えるが厳密には斬る機能の方が攻撃力の中心となっている。つまり、太刀のように扱うことも可能であり、そこが用法上薙刀と多少異なることろである。そのため、武術としても長巻術という独自な技術も発達し、武家によっては専門の指南役を抱えて技を磨いたところもあった。

 長巻の難点は、柄が長いため太刀のように自在に扱うには、相当に慣れが必要だということである。例えば、戦場では徒歩兵だけでなく騎馬兵にも用いられたが、慣れないと振り回した刃で自分の馬を傷つけてしまうという危険もあった。もちろん習熟すれば、刃が長く重いだけに一撃で腕を切り落としたり、鎧の上からでも骨を打ち砕くほどに強大な威力を発揮した。
長巻 歴史(ナガマキレキシ)
○歴史と詳細

 長巻が盛んに使われたのは戦国時代である。長巻の前身は刀身の長大な野太刀であるが、刀身が120~180cmくらいの野太刀を振り回せるのは相当な剛の者に限られる。そこで非力の者はどうしたかといえば、柄を長くして槍や薙刀の要領で扱えるように工夫し、十分に使いこなせるようにしたのである。そうした工夫の過渡的な形態を示すものに中巻野太刀と呼ばれるものがある。これも一応長巻に分類されるが、形状としては野太刀の刀身の中程から鍔までを細縄で巻きしめて握りをよくし、短い柄を補ったものである。やがて初めから柄を長くするようになり、いわゆる長巻の様式になった。

 長巻の武器としての地位に関して、文献などには「槍に不調法の者は長巻を使った」というような説明がみられる。つまり薙刀や槍などの長柄の補助的な武器として使われたものである。戦国時代の織田軍においては、槍などの長柄組の後に長巻を持った中間(ちゅうげん)が、大将の馬廻りとして隊列を組んだ。また、『太閤記』には秀吉が徒歩兵の集団に長巻を持たせたという記述があり、その寸法は刀身が約105cm、柄が約130cmというものだったと述べている。その他、長巻の戦闘集団として有名なものに、上杉(景勝の時代)の長巻隊があり、こちらは刀身の寸法が約90cmであったという。

 なお、一般に柄の長い刀剣のことを長束刀と呼ぶが、機能的にはここで言う長巻と同じものといえる。
長柄槍(ナガエヤリ)
 長柄槍は、その名の通り柄が長大であることが最大の特徴である。戦国時代には足軽集団にこの長柄槍を持たせた部隊が編成され、徒歩集団戦における主役として大いに活躍した。戦場で発揮した威力と狙った役割の重要さという点では、各種の槍の中でもトップクラスである。

 槍の形式としては素槍の一種だが、柄が長い分槍穂が他の槍に比較して短いという点も特色である。柄の長さ、穂槍の寸法などの様式に一定の基準はないが、全長が約455㎝(2間半)から約640㎝(3間半)の間。穂槍は三角穂で長さは9~15㎝以内。太刀打ちがだいたい54㎝ほどである点から、柄の部分は550㎝前後と、他の槍に比べると大変長いものである。柄の材質は、初期の頃は樫や竹が用いられたりしたが、のちにはほとんど軽くて強靭な弾力性のある打柄になった。

 集団戦法における長柄槍の用法は、まず槍を立てて構え、上からいっせいに振り下ろして敵を叩き倒したり、攻め込んでくる騎馬武者を叩き落としたりする方法がある。敵が崩れたらそこを攻め込んで突き刺す。あるいは、石突を地面に差してしっかりと固定し、柄を右膝にのせて槍先を馬の胸の高さにして斜めに構える。それで突っ込んでくる騎馬武者の馬を突き、落馬したところを突き刺すという方法である。また、槍襖(やりぶすま)という戦法は、敵と接近した場合に、長柄の石突付近を両手で握り、敵に向けた穂先を重ねるように揃えて隊列を組んで前進する方法である。敵側から見ると槍が襖のごとく立ち塞がって見えることからその名がついたものである。

 実際の戦闘では長柄の槍組の活躍で敵の戦闘体形を崩すことによって、展開が断然有利になったことから、槍組の強固さによって勝敗の行方が決するといわれたほどだ。ただし、逆に味方の槍組が弱体であれば大きな不利を招く。そのため、槍組足軽は集団行動を厳しく訓練され、戦場で勝手な個人行動を行なったものは、その場で首をはねられるという厳しい決まりがあった。
長柄槍 歴史(ナガエヤリレキシ)
 長柄槍の登場は、戦国時代に織田家で2間柄(約364㎝)の長槍を使うようになったのが始まりともいわれている。間合の長さとそれを集団的に用いたときの威力から、たちまち主要な武器となり、槍組を第一線に配した新たな集団戦法が広まった。当時の集団戦法は、まず弓や鉄砲で攻撃を開始、ころあいをみて槍組が一斉に進撃して敵を崩し、そこへ騎馬隊が突撃するといった形であった。そのなかでも槍組は戦闘の展開を左右するキーポイントになるものだった。また、こうした槍組の出現は、それまで戦場においては武士の補助的役割だった足軽という存在を、一躍戦闘の第一線に立たせたのである。いってみれば戦闘の主役を変えるという画期的な役割を、長柄槍が果たしたともいえる。

 戦国時代の足軽は、農民を夫役として集めたもので、彼らが槍組に編成されたのである。農民であるから当然武術の心得はないが、戦場で長柄槍の集団として機能したとき大いに力を発揮した。

 安土桃山時代(1573~1598)には、槍を主武器とする武士の集団(騎馬武者)を長柄組といい、槍組足軽の集団を長柄者、あるいは長柄足軽といって区別した。江戸時代になると幕府によって槍足軽の戦闘部隊が編成され、それを長柄組と呼ぶようになった。当時の長柄組はだいたい10~30人が1組で、足軽大将1騎、小頭1,2騎という編成であった。日常の訓練として、集合、散会といった集団行動や槍襖、上槍たたき込みといった長柄槍の技法などを練習していた。

 
長柄槍と戦国武将(ナガエヤリトセンゴクブショウ)
長柄槍の活躍を伝える記録としては、戦国時代の『三好記』に、阿波三好家の長柄槍組三千の部隊が、京都の合戦で越前の兵一万を殺し、勇名を馳せたということが記されている。また、長柄槍の集団戦での有利さを象徴する話として有名なものでは、江戸後期に書かれた『絵本太閤記』に、木下藤吉郎秀吉の長短の槍試合の話がある。

 あるとき織田信長が家臣たちに「槍の柄は長いのと短いのとどちらが有利か」と尋ねた。それに対して槍術を心得る上島主水は「短いほうが有利」と答え、槍に心得のない秀吉は「槍術を知らぬ足軽に長い槍と短い槍を与えたら、長いほうが勝つ」と答えたため、3日後に槍試合をすることになった。上島は50人の足軽に長い槍に勝つ技術を賢明に教え、一方の秀吉はろくに稽古もせず足軽たちに酒食を与えて楽しく遊んで過ごさせた。いよいよ試合当日。秀吉は50人の足軽を3手に分け、鬨の声を上げて突進させ、その勢いでもって一斉に相手を突き伏せ、なぎ倒して完全に上島方を圧倒してしまった。

 これは作り話だが、要するに秀吉の勝因が長柄槍を一番有利に、効果的に使える集団戦法の工夫にあったと語っているわけで、実際の戦闘でとられた長柄槍の戦法から創作されたものと考えられる。

は行

【は】

腹巻 構造と性能(ハラマキコウゾウトセイノウ)


 胴丸をさらに簡略化した形式の鎧が腹巻である。発生の時期としては胴丸よりやや下った鎌倉時代後期と推定されている。構造的特徴として、胴の腹の部分だけを覆うようになっていることから、この名がつけられた。一般的には前立拳2段、後立拳2段、長側4段、草摺7間5段下がり、背中引き合わせというものである。腹巻の素材は、鉄製の小札、革製の小札、鉄革1枚混ぜなどで、小札のサイズはやや小さめだが、構成はほとんど大鎧と同じ。

 着用方法は、胴にぐるりと巻き、背中の中心で引き合わせる方式で、重ね合わせるようになってないので、背中には隙間ができる。胴に押し当て、左右の肩の部分の高紐をこはぜで留め、腰の部分を紐で巻き結ぶという簡単な動作で装着できる。腹巻の小型のものは衣服の下につけて、文字通り腹巻のように用いることが多かった。この腹巻も重装備の大鎧に対して、防衛的な機能よりも徒歩戦における攻撃的な機動性に適したものとして、その性能を発揮した。その利点は装着のしやすさ、重量の軽さ、さらに騎乗用・徒歩用どちらにも利用できることである。

 ちなみに背後を防御するために隙間を覆う背板をつける場合がある。武士は敵に背後を見せるものではなく、隙間があっても大丈夫である、という考えから、南北朝時代にはこれを「臆病板」と呼び、あまり用いられなかった。しかし、室町時代になると、そんな見栄にとらわれず防御第一で用いるものも多かったようである。
腹巻 歴史と詳細(ハラマキレキシトショウサイ)


 腹巻も胴丸と同様に、時代が下るにつれて上級の武士が用いるようになる。初期は胴だけで用いられていたが、やがて兜やそのほかの小具足も整えられるようになった。肩の部分には最初杏葉(ぎょうよう)が用いられていたが、のちになると袖が用いられている。室町時代には胴丸、腹当などと合わさった形で、当世具足へと発展する。

 腹巻が盛んに使われたのは南北朝時代(1336~1392年)で、この時期には戦場においてはより軽快な武装が好まれ、形状もなるべく小型に作り衣服の下に着込んだ。「下腹巻」の呼び名はそうした着用法からいわれるようなった。この形式は戦国時代まで続くが、当世具足が現れるようになるとその機能は吸収され、姿を消していった。また、腹巻に用いられる兜はだいたい星兜よりも軽い筋兜である。

 ちなみに、有名な人物の腹巻としては、徳川家康が13歳のときに使っていたという遺品がある。これは現在、静岡の浅間神社に伝わっている。
腹当 構造と性能(ハラアテコウゾウトセイノウ)


 腹当は、胴丸、腹巻よりもさらに簡略化されたもっとも軽装の鎧で、機能としては、胴の前面と左右を防護するだけというものである。構造は一般に、胸板に立拳2段、左右の脇までの長側2~3段、草摺は3間で中央が2~3段、左右1~2段という形。

 装着するときには、長い肩上を背中で交叉させるようにして肩にかけ、胸板の高い紐で結んで留める。簡略で小型のものだから、衣服の下に着用することや上から着けることもあるが、軽くて活動するときにはほとんど負担にならない。軽装備なので製作費も安く、大量生産には便利だったので、主に下級の者の軽武装に用いられた。また、上級の武将も普段、不意の危険から身を守るために用いた。そのうちに装備も袖、籠手、臑当などをつけて重武装するようになる。このときに着用する兜は、胴丸、腹巻と同様筋兜だった。
腹当 歴史と詳細(ハラアテレキシトショウサイ)


 腹当の発生時期については定かではないが、『源平盛衰記』に「腹巻腹当筒丸」としるされているところから、平安時代(794~1184年)末期にはつくられるようになっていたと考えられる。ただし、最古の遺物として今に残っているのは室町時代(1392~1573年)のもののみである。

 楠正成などが武勇を誇った南北朝時代の争乱では、しばしば山岳戦争が展開された。そうしたなかでの鎧は、より軽快さが求められた。なので、軽装の腹当に長側などを取りつけて機能を拡大させ、腹巻として用いるといった工夫もなされた。室町時代には、のちの弓足軽に相当する下級の徒歩兵の集団が、戦場で活躍するようになる。彼らが着用したのがこの腹当である。足軽が弓を射る時には、楯に隠れて発射するので、あまり防備を堅くする必要はない。なによりも自由に弓を引けるような軽武装が大事だった。そのために腹当は最適だったのである。

 なお、戦国時代から安土桃山時代の頃には、雑兵用の御貸道具として用いられた前懸具足の形式としても生かされている。
鼻捻(ハナネジ)
 鼻捻は、現代の警官が携帯する警棒の元祖である。古来、暴れる馬を制するときに紐輪を鼻にかけ、棒をねじって締めつけるようにして用いたことから、その名がつけられたものである。発生としては、武士が登場し騎馬が盛んになる平安後期頃に登場したといわれている。やがて携帯にも便利で身軽な護身用の武器としても用いられるようになり、下級武士は普段の刀の代わりに腰に刺して携帯していた。

 室町時代(1392~1573)には厩舎の常備品から、完全に警固用具や捕具へと発展。江戸時代になると青貝象眼、漆塗りなどで装飾したものが作られ、武家の屋敷などに用心棒として常備された。そして、明治維新後、最初横浜の外人居留地内の警備用に使用され、やがて警棒として普及した、というのがおおよその歴史的な流れである。

 木製の鼻捻には、樫などの硬い材質を、直径3㎝くらいの円形か六角形に削ったもので、長さは30㎝くらいから、長いものは75㎝前後のものまである。棒の手元の末端近くに穴をあけ、30㎝前後の紐を通して輪形に結ぶ。この輪紐の位置も、棒の中心寄りの握りの上あたりに穴をあけて取りつける方法、あるいはその部分に単に紐を結びつけて手貫紐として使う方法などがある。使うときには、小指に端を引っかけて、紐を手首に一回転させて巻きつけて握る。そうしておけば、打った衝撃で棒を取り落したりすることがない。用法としては、相手の攻撃を打ち払い、隙をついて殴ったり突いたりして動きを鈍らせ、縄をかける。

 江戸時代に侍屋敷などに常備されたものは、黒漆に金蒔絵の家紋入りなどといったふうに高級感覚の装飾を施したものである。しかし、捕具として用いられた鼻捻は、木地のままか黒漆塗り、あるいはせいぜい黒と朱の漆を塗り分けて蛭巻模様を描いたりする程度のシンプルなものである。江戸時代の中頃からは、鉄製や真鍮製のものも登場する。ところが、この結果素材も形状も、さらに用法もなえしと同じということになり、十手とともに普及していたなえしの方が便利であったことから、鼻捻はあまり用いられなくなってしまった。こうして一時は姿を消した鼻捻だが、明治になって元の木製の姿に立ち返って警防具の主役になり、現代も活躍をしている。

【ひ】

弓胎弓(ヒゴユミ)


 室町末期の頃に考案された合成弓で、現代の弓道でも用いられている弓である。弓胎(ひご)というのは竹を縦に裂いたいわゆる竹ひごのことで、剣道の竹刀に使われている竹をイメージすればいい。その構造は、図のように竹の弓胎を張り合わせて真ん中に入れ、その両側に側木(そばぎ)をつけ、これに内竹と外竹を張りつけている。真ん中に用いる弓胎の数により、3本弓胎、4本弓胎、5本弓胎の弓と呼ばれる。数が増えればそれだけ弓の反発力も強まり、射程距離も延びる。江戸時代の弓術の技術により遠くへ飛ばす「遠矢」があるが、そのために使われたのがこの弓胎弓だった。

 弓胎弓の最大の特徴は、そもそも矢をより遠くに飛ばす遠距離用として開発されたことである。そのきっかけとなったのが、有名な京都・三十三間堂の「通し矢」で、これは二間に一本の柱を置いた堂の軒下と高縁の間(66間=約120m)を射通す一種の競技だった。戦国時代に始まったものが、江戸時代になると競技会のごとく盛んになり、挙句藩の名誉を賭けるほどに過熱した。そこで、これに勝つためにより強力な弓が工夫開発された。それが弓胎弓であった。なお、通し矢は一昼夜をかけて射続け、どれだけ多く射通すかを競うもの。最高記録としては貞享3年(1686年)、紀州藩の和佐大八が総数13000本中、通し矢8133本を記録している。
日吉丸 1(ヒヨシマルイチ)


所有者は武智(明智)光秀。

○反逆者・明智光秀

 歌舞伎の時代狂言の傑作のひとつに数えられる、4世鶴屋南北作『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅうせのうけじょう』は、悲劇の戦国武将・明智光秀が主人公です。文化5年(1808年)7月に江戸市村座で初演された本作品は、光秀が主君の織田信長を討つことを決意し、堂々の下剋上を敢行するまでの物語です。

 信長軍団の智将として名高い光秀が、何故に無謀ともいえる本能寺攻めに踏み切らなくてはならなかったのか。この戦国史上一大ミステリーについては古来から多くの仮説が立てられており、信長との確執から謀叛を決行したという見方が定着しています。そんな光秀の人物像は、「太閤記物(豊太閤出世物語)」を通じて生み出されたものです。

 江戸時代に人気を集めた文芸・芸能に、太閤記物というジャンルが存在しました。信長の後継者として戦国乱世の統一を果たした豊臣秀吉を主人公とする一連の太閤記物に、光秀は実名の悪役として登場しています。天正10年(1582)6月2日黎明に本能寺への奇襲を成功させたのもつかの間、遠征先の中国地方からすかさず取って返した秀吉(当時は羽柴秀吉)との決戦に光秀は完敗し、悲惨な末路を迎えているからです。
日吉丸 2(ヒヨシマルニ)


○画期的だった『絵本大功記』

 つまりは生前のみならず、フィクションにおいてさえも、好敵手である秀吉の引き立て役を長い間勤めてきたのですが、単純な悪役と言うだけに終わらない光秀の人物像が明確になったのは、寛政11年(1799年)7月に大阪豊竹座で初演された浄瑠璃『絵本大功記』です。

 江戸時代の創作に史実上の人物が登場する場合の常として、差し障りのないように光秀は「武智光秀」、信長は「小田(尾田)春永」、秀吉は「真柴久吉」とそれぞれ仮名で記されています。

 復習する者、される者、事態を収拾する者と三者三様の役割を担う男たちのドラマは、光秀が謀反を起こしてから殺害されるまでの13日間が全13段でドキュメンタリータッチに演じられるという構成になっています。暴君は忠臣の光秀に度重なる理不尽な虐待を加えた報いとして、報復の憂き目をみる。起伏に富むストーリー展開の中、光秀が単純な悪役ではなく複雑な葛藤を抱えた人物として好意的に描かれたことにより、以降の太閤記物は秀吉の栄華を称えるだけにはとどまらない、現代人にも共感できる側面を内包するに至ったのです。

 ちなみに『絵本大功記』は、浄瑠璃で初演された同年の11月には早くも歌舞伎化が実現しました。現在では春永(信長)が討たれた後、久吉(秀吉)ら敵対勢力との決着に向けて、光秀とその一族が不倶戴天の決意を固める姿を描いた、十段目「尼ヶ崎閑居(あまがさきかんきょ)」のみが太十(『大功記』十段目の略)の異名で上演されています。
日吉丸 3(ヒヨシマルサン)


○遺恨の影に名刀あり

 時代が下り、太閤記物の決定版として登場した『時桔梗出世請状』では光秀が一人の人間としての尊厳ゆえに、謀叛と承知の上で信長抹殺に立ち上がるまでの過程が丹念に描かれています。

 ここで重要な役割を担う小道具が、名刀・日吉丸です。

 本能時の変の勃発から光秀の最後までの流れをドキュメント風に追っていく『絵本大功記』に対し、この『時桔梗出世請状』では、どうして光秀が主殺しをしなければならなかったのかが、背景となった様々な事件を通じて解き明かされています。

 有名な勅使饗応の失敗談を始めとする、一連の大小の事件は、いざ当事者となれば誰もが怒れずにいられないほど、誠に理不尽なものばかりなのですが、その中に日吉丸を巡るエピソードがあります。

 日吉丸に関わる部分のエピソードを紹介していきます。
日吉丸 4(ヒヨシマルヨン)


○皮肉な巡り合わせ

 久吉(秀吉)軍勝利の朗報を待ちわびながら、本能寺に陣を構えた春永(信長)は、同行させた光秀に数々の理不尽な仕打ちをします。

 さすがにいじめの種が尽きたかと思いきや、持ち出したのはかねてより光秀が所望していた名刀・日吉丸でした。

 いかに手酷い虐待を加えても、やはり家臣への一抹の温情は残っていたのかと思いきや、日吉丸は新参者の中尾弥太郎に授けられました。それも光秀の目の前での出来事でした。

 春永は、さらに残酷な仕打ちをやってのけます。何を考えたか女の切り髪を一束、光秀に下げ渡そうとしたのです。

 不可解な行動の理由は、続く春永の一言ですぐに知れました。

 「光秀、流浪のその砌り、越前の国に忍び住む。珍客来れど饗(もてなし)の値に尽きしその折から、妻がやさしき志、わずかの鳥目(お金)得んために、根よりふっつと切髪を、旅商人に売り代なす。その節求め来りしはこの春永が間者の武士。」

 春永に召し抱えられる以前の光秀は士官先に恵まれず、諸国を流浪していた時期がありました。当然ながら懐具合は苦しいものでした。そんな折に遠来の客をもてなすため、妻が髪を売ってお金を用意したのです。その時の髪が今、たまたま旅商人に化けて越前(福井県)を探索中だった春永の密偵の手を経て、横暴なる暴君の掌中にありました。

 皮肉な巡り合わせとしか言いようがありません。

 満座の中で恥をかかされた以上に、自分のみならず糟糠の妻の威厳をも傷つけられたことが、いかに光秀を苦悩させたかは想像に難くありません。

 それでも光秀は耐えました。

 耐えて辞去し、愛宕山の宿所に戻っていきました。
日吉丸 5(ヒヨシマルゴ)


○復讐の刃を手に

 そこに、最後の追い打ちが来ました。春永の命令を伝える上使として、中尾弥太郎が愛宕山に現れたのです。左腰には、拝領されたばかりの日吉丸をこれ見よがしに佩いていました。

 伝えられたのは、光秀の所領である丹波と近江の2カ国を没収するという命令でした。全てを聞き終えた光秀は切腹を望み、白装束を身につけて三方の前に座りました。しかし、光秀が遂げようとしたのは同じ死でも、春永の望みとは全くの別物でした。その場に立ち会った中尾の日吉丸を奪い、一刀の下に切り捨てた光秀は、力強く三方を踏み砕きます。人としての尊厳を取り戻すべく、決然と立ち上がったのです。中尾を血祭りにあげて復讐の刃と化した日吉丸は今、最も望ましい持ち主である光秀の手の中で、怪しい光を放っていました。

【ふ】

飄石(フリズンバイ)
飄石は投弾杖ともいい、竹または木の棒の先に投弾帯を取り付けたもの。

150cmくらいの棒の先端に割れ目をこしらえ、投弾帯の紐の一方の端をコブにしてそこに挟む。

もう一方の端を割れ目に挟んだ紐の下5cmほどのところに結びつける。

投弾帯の全長は80cm、結びつけた状態で30cmくらいの長さになる。

使い方は、投弾帯の真ん中にあるポケットの部分に投弾を入れ、両手で棒を持ち、思い切り振って投げ飛ばす。

要領としては投げ釣りの竿の振り方と同じ。

棒を前方に振り切ると同時に、遠心力で投弾に重力がかかり、棒に挟んだほうの紐が外れて投弾が勢い良く飛び出す。

普通投弾の到達距離は180~200mといわれる。
飄石 歴史(フリズンバイレキシ)
平安時代の頃から、神社の祭礼や5月の端午の節句に印地打といわれる石合戦が行われるようになった。

生活の中の行事であり遊戯でもあったが、ときには多くの死者もでるほど危険なものだった。

そうした中で飄石も投石補助具として使われたりしたが、戦場ではほとんど用いられなかった。

西欧にもラテン語でフスティバルズ、イタリア語でスフェンドンと呼ばれる同様な投擲補助具が使われていた。

その形状も原理もほとんど飄石と同じ。

射程距離は投弾帯に劣るが、使い方は比較的容易。

さらに、棒を使うことによって遠心力をつけ、両手で使うので、片手で操作する投弾帯よりも大きくて重い石を投げる事ができる。

西欧では古代ギリシャ、ローマ時代から中世まで、攻城戦などによく使われていた。

【ほ】

保呂(ホロ)


 保呂(ほろ)が文献に登場するのは平安時代の初期の頃で、後世のものと同じかどうかは分からないが、相当に古くから用いられていたと考えられる。保呂は騎乗者が背につける大きな布で、上端を肩のところに結び、下方を腰のあたりにはさんで用い、騎乗駆けしたときに風をはらんで大きく膨らむようにする。ただし、止まるとしぼんでしまうので、室町時代の頃からは常に膨らんだ状態になるように保呂串を用いるようになった。これは鯨骨や金属、竹、籐などの材料を用いて、保呂が半球状になるように骨組みしたものである。

 その機能としては、伊勢貞丈の『軍用記』には矢を防御するものとされているが、あまり実用的ではない。結局、戦場で武者の威勢を誇示することが本来的な目的とみるのが妥当なところで、近世になってわざわざ膨らまして見せたのもそうした目的の表れと考えられる。要するに武士の目印のひとつであり、同時に戦場で首を討ったときには保呂に包んで持ち帰ることが武士の心得となっていた。
棒(ボウ)
ここでいう棒とは硬い木を丸く削ったもののことで、鉄板や筋金など他の物質を加えて補強していないもののことをいう。

棒の素材は一般に樫が主に用いられるが、それ以外に杉、柘植、橡などが用いられる。

これらを丸い棒のまま使ったり、六角形、八角形に削って使うが、長さは多様で、短いものは約30cmほど、長いものは300cmを超えるものも用いらている。

柳生心陰流の伝える棒の長さの基準は、次のようになっている。

手切棒 20cm弱 中指の先から手首までくらいの長さ

肘切棒 40cm 中指の先から肘までの長さ

腰切棒 90cm 地面から腰までの長さ

乳切棒 120cm 地面から乳首までの長さ

耳切棒 160cm 耳の高さまでの長さ

六尺棒 180cm 耳切棒より長いもの

戦国時代の軍記物では「北条五代記」に剛の者が1丈2尺の棒を振るったという記述もある。

以上の長さの内約90cmまでの棒を総称して半棒と呼ぶ。

機能性や扱いやすさの点で棒術や捕り物などによく使われたのが乳切棒と六尺棒。

太さは大体直径3.5cm。

棒には別名槍折の名もある。

これは戦場で槍の穂先を打ち折られながら、残った柄で戦った事からきたもので、棒の武器としての簡便性を象徴するものといえる。
棒 歴史(ボウレキシ)
棍棒という言葉があるが、これは棍と棒を総称したもの。

中国で棍というのはここでいう棒にあたり、何も加工や強化処置も施さないもの。

対して棒は木に鉄を巻きつけたり、先のほうを太くして重心を前に移す事によって打撃力を高めるなど、いわゆる強化棍棒のことをいう。

日本では金砕棒がこれに近い。

もう1つ棒と同様な表現に杖という言葉がある。

基本的には細長い棒の事なので、ここでいう棒の概念に含まれると考えてよいだろう。

杖と呼ばれるものに鉄製の吾杖、切籠杖があるが、これは阿梨棒といって長さ100~130cmの鉄製で、先細りの鉄鞭状のもの。

棒は人類が手にしたもっとも古い部類の武器。

日本では棒が兵器として盛んに使われた記録が残るのは、平安時代末期の頃から。

「源平盛衰記」のなかにも、弓を持たない者が4、5人ないし7~10人で徒党を組み、各々好みの杖(棒)を持って戦場に出たことが記されている。

南北朝時代になると、棒は戦場における強力な兵器としていよいよ盛んに使われるようになる。

この時代、戦闘様式が騎馬戦から徒歩集団戦闘に変化し、甲冑も軽く動きやすいものが主流となる。

簡便さという利点の一方、逆に打撃に対する防御効果は減少する。

そこで打撃武器としての棒の効果も高まった。
棒術の発展(ボウジュツノハッテン)
多くの戦乱を経験して棒の操作技法も洗練され、棒術は総合武術の1つとして江戸時代に大いに発展した。

棒術は刀剣などの技法と並んで、日本でも古くから行われた武術で、「日本書紀」にもすでに棒の技法に関する記述がある。

棒の操作技術の進歩が著しかったのは、激しい戦乱が続いた南北朝時代。

この時代の戦闘は、力任せに振り回し、当たるを幸いに相手を叩き、損傷を与えるというものだった。

しかし、180cm前後の重い樫の棒を振り回すのは、いかに剛の者でも消耗する。

そこで棒も長短さまざまなものが工夫され、それにつれてより効果的な操作技術の研究がなされた。

やがて、室町時代になって武術の流派が発生すると、その中の1つとして棒術も確立されていく。

こうして江戸時代には大いに隆盛して多くの流派が生まれるが、その技法は打つ、突く、払う、といった要素を基本に構成されており、戦場における乱戦用というよりも個人の格闘の技術だった。
鉾(ホコ)
鉾は刺突を目的とした武器。

形状的な特徴は、茎が袋状の筒になっていて、そこに柄を差し込む袋穂式にある。

弥生時代から平安初期に用いられた青銅製や鉄製の鉾身は、長さがだいたい15~30cmの間。

鉾身の断面が剣身形両刃の菱形のものが中心だが、片刃の刀身形あるいは三角形のものもある。

また、鉾身下部に鎌状の枝刃や鯰尾形の鈎刃をつけたものもおおく見られるが、これは鉾を対乗馬用の長柄武器として用いるための実践的な工夫。

柄の素材は、古くは木を削って漆塗りにしたものが多く用いられたが、時代が下がると竹を組み合わせた打柄が多くなる。

打柄は外側に糸や紐などを巻きつけ、漆を塗って強化し、柄の中央部を片手で握りやすくしてある。

長さはだいたい330~450cmくらいで、柄の末端には鉄製の先が尖った形の石突がついている。

片手で扱うことから、重さを軽減する意味で柄の太さは後世の槍よりも細めに作ってあるのが特徴。

鉾は基本的に片手で握る。

片手で持つという用法は、もう一方の手で楯を構える当時の兵士の戦闘様式から生まれたもの。

使う時には柄の中央を右手で握り、水平に突き出し、引き戻す操作を繰り返すか、あるいは投げ突きして敵を攻撃する。

また、鎌のような枝端のついた鉾身は、中国の戟という長柄武器の機能と同じで、この場合は両手で用いて、騎乗者を鎌の部分で引っ掛けて落とし、突き刺すといった使い方をする。

枝刃は鎌槍の鎌と同様に、鉾身が深く刺さり過ぎないように防止する役目を果たす。
鉾 歴史(ホコレキシ)
鉾はもともと中国で盛んに使われた長柄武器が輸入されたもので、古くは中国に戈、矛、戟、槍など、その機能や形状に応じた名称で呼ばれた。

日本における本格的な長柄武器としては最も古いもので、その歴史は「日本書紀」に記された神代の天沼矛に始まる。

3世紀の日本のことを記録した中国の「魏志倭人伝」に、丸木弓とともに鉾と楯が用いられていたことが記されている。

中国大陸から伝わった鉾がこの頃すでに盛んに使われていたが、その後も戦争などの接触を通じ新しい武器の形状などが伝わってくる。

古代の戦争として有名な白村江の戦は、大和朝廷が百済に援軍を送って唐軍と戦ったもので、日本の水軍は唐の水軍に大敗を喫した。

このとき唐軍の主要な武器として威力を発揮したのが鈎つきの鉾だった。

その結果として、以後日本でも鈎つきの鉾が盛んに作られるようになったと考えられている。

中国の矛や戟といった長柄武器は戦車戦によく使われたほか、歩兵や騎兵の主要武器だった。

日本では主に歩兵の武器として装備されたもので、万葉の歌にも詠まれている、防人が所持していた武器は鉾だった。

鉾が実用的な武器として用いられたのは平安時代初期までで、その後は儀礼用に用いられることが多くなる。

南北朝時代初期までは戦場でも用いられていたようだが、やがて槍の流行とともに姿を消す。

ま行

【ま】

丸木弓(マルキユミ)
 アルタミラの洞窟の壁画に描かれた弓の絵。2万年前の旧石器時代に人類が最初に使った弓は、反発力のある木を使ったシンプルで短い弓だった。形状的にはその後、地域や民族によって160㎝前後を境にして、それより短い短弓、長い長弓という2つの大きな流れとして発展していく。我が国では、古墳時代以降長弓が主体となった。

 古墳時代から平安時代初期まで使用された丸木弓は、自然の木を丸く削って作った単弓である。当時の弓の形状は、長さが170~26㎝の範囲内で、もっとも一般的なものは220㎝前後。短めのものは騎馬兵が用い、普通のものはだいたい徒歩兵が用いたと考えられる。弦をつけないときはほとんど直線的な棒状で、断面はほぼ円形である。素材は梓、檀(まゆみ)、槻(つき)、櫨(はぜ)、欅(けやき)などが用いられ、弓身に赤漆や黒漆を塗り、強化のために糸を巻く。なお、丸木弓には弓身の下半分の内側に浅い溝(樋)が彫られている。これは弾力の調整と弓身の捻(ねじれ)を防ぐ工夫である。

 奈良時代の矢柄の素材は篠竹で葦もわずかに使われ、全長が70~90㎝くらい。矢羽は2枚が主流であるが。鏃の種類によって3、4枚のものもあり、矢が空中で旋回しないように工夫されている。鏃はまれに竹、骨、角、牙、銅製のものもみられるが、中心は鉄製である。形状は多様であるが、だいたい細身で先のとがった尖根、平たくて幅の広い平根、そのほか変形の特殊なものという3種に大別される。要するに後世の鏃の原形はおおよそこの時代に考案されていたと考えられるのである。

 丸木弓の射程距離はおおよそ300mといわれる。弓の強弱も関係してくるが、実際に戦場で正確に相手を射抜いてダメージを与える有効射程距離は100mくらいである。この範囲内なら、長い矢柄に大きくて重めの鏃をつけた矢なら、人や馬を貫徹するだけの威力が十分ある。単弓といっても、70m以内なら後世の合成弓に劣らない性能を発揮した。
丸木弓 歴史と詳細(マルキユミレキシトショウサイ)
 日本における弓矢の登場は、1万5千年前から2万年前の古縄文期と推定されている。時代が下がって縄文前期(紀元前7500~2500)の頃の遺跡から発掘されるものは、長さが70㎝くらいの短弓がほとんどで、この頃には既に黒漆塗や朱漆塗で、樺皮を巻くのは、弱い部分を強化するためである。

 縄文晩期(紀元前334)頃になると長さ130~170㎝くらいの長弓が使われるようになる。その後しばらくは、短弓と長弓が入りまじって用いられるが、弥生時代の末(200~300)頃からはほとんど長弓が中心になる。なので、日本の弓の特徴のひとつでもある長い弓は、この時期以降の伝統でもある。

 奈良時代の丸木弓にはさまざまな呼び名があり、『日本書紀』や『古事記』などの文献、あるいは『万葉集』にも、「梓弓」「檀弓」「槻弓」などの名称で登場する。これらはいずれも素材にちなんで名づけられたものである。こうした丸木弓は、主要な武器として当時の軍隊に装備されたものだが、その一方では儀礼的な役割も果たした。7世紀の大化の改新以後、奈良、平安時代を通じて盛んに行なわれた宮廷の年中行事の「射例(じゃらい)」「賭弓(のりゆみ)」「騎射(うまゆみ)」「弓馬初(ゆばはじめ)」などに使われたのが、これら丸木弓だったのである。当時はそうした儀礼射を専門とする家柄も生まれ、伴氏、紀氏などの名が知られている。
鉞(マサカリ)
斧も鉞も本体の斧頭とそれを装着する柄からなる武器。

発生としては斧から変化したのが鉞ということになるが、日本では斧頭が大きく肉が薄めのものを鉞、小型で肉厚のものを斧と呼んで区別している。

日本では石器時代から石斧が用いられてきた。

金属が使われるようになるとそれが鉄製に代わり、古墳時代、奈良時代にも戦闘用に用いられていたことが「日本書紀」など古い文献にみられる。

戦闘用の武器として鉞が登場し盛んに使われるようになったのは鎌倉時代の頃から。

当時の鉞は柄が約90cm~120cm、刃渡りが約9cmという小型のもので、軍記物のなかでは斧とも呼ばれたりしている。

南北朝から室町時代になると、次第に大型のものが使われるようになり、大鉞とよばれるようになる。これは刃渡りが30cmほどあり曲線を描いている。

柄の長さは150cm前後、重量は4、5kgくらいあった。

大きく重く、刃が広くなったことにより物体を断ち割る斬撃力が増し、その威力は大いに強化された。

しかし、大型化して重くなりすぎると扱いにくくなるという欠点があるから、なるべく重量を減らすため、斧頭の真ん中に猪目の穴を飾りのように開ける工夫が施されるようになる。

戦場においては主に接近戦で用いられ、人馬への攻撃で相当な威力を発揮。

また攻城戦では、鹿砦、塀、門などの破砕用として重要な役割を果たした。
鉞 歴史(マサカリレキシ)
斧や鉞はその機能として刃で切るというより、打撃力を生かして打ち割り、叩き斬ることを目的としている。

形式としては西洋のバトルアックスに相当するものだが、厳密には日本において、西洋や中国にみられるような本格的な戦闘用の斧は製造されたことがないとされている。

農具や工具として使われたものと同じものが武器としても使われ、特に武器専用に独自な発達を示すことがなかった。

斧は木を切ったり削ったりする工具として、同時に武器としても世界中で用いられている。

日本でもその歴史は古く、斧の原型は石器時代の石斧と考えられる。

最も初期のものに、旧石器時代の握斧がある。

これは手で握って使用したばかりでなく、柄をつけて狩猟や、ときには武器としても用いられた。

石斧は縄文時代の遺跡から多量に出土している。

その用途は木製の柄をつけた農耕用の土掘り用具、あるいは手斧のような木工具で、武器としても用いられた。

この時期の石斧は横斧がほとんどだが、弥生時代には大陸製の石斧が入ってきて、縦斧も使われるようになった。

更に弥生時代の後期になると、鉄製の手斧が現れる。

最初は大陸からの輸入だったが、すぐに国内でも斧や手斧が作られている。

その後も斧は武器として用いられるが、接近戦の雑武器の一つに過ぎず、刀剣や弓矢などのように目立つものではなかった。

それが源平時代の頃から、戦場の主な武器の一つとして表舞台に顔出しするようになる。

当時は騎馬武者を主力とした戦闘形態で、鎧兜も太刀や弓矢を通さない堅固なものになっていた。

そんななかで、鉞は馬の足を斬ったり折ったりして騎馬武者の戦闘力をそぎ、鎧の上から強力な打撃で骨を砕き、深手を負わせた。

そうした威力が評価されて人気になり、斧頭を自在に振り回せる体力のある剛勇の士の持ち道具になる。

その華々しさの頂点ともいえるのが、南北朝時代に流行した大鉞。

やがて戦闘が高速化して集団戦闘になり、さらに鉄砲が登場する戦国時代には、武器としての花形の座から退きふたたび小型化。

戦場では小者が腰に差して持ち、野陣の設営、敵の防禦柵などの破壊用として用いられるようになった。

【み】

微塵(ミジン)


○構造と用途

 未塵とも書きますが、文字通り当たればこっぱみじんに砕けることから名づけられた江戸時代の捕り物道具の一種です。鉄の輪に3本の鎖を取り付けているのが大きな特徴です。鎖は短いもので20センチから長いもので60センチ。鎖の両端に3~6センチほどの分銅を取り付けています。

 用法は、3本の鎖分銅を同時に働かせたり、あるいは2本を活用したりという形で、いくとおりもの使い方があります。

① 中心の鉄輪に人差し指と中指を通して使う場合は、3個の分銅を振り回して相手を打つ様に使います。3個の分銅を順次当て、相手を気絶させてしまうに充分な威力があります。

② 敵が近寄ってきた場合は2本の鎖を握って間合いを短くし、残りの一本の分銅で頭、顔、胸、足などの急所を狙います。

③ 逆に敵との間合いが遠い場合は一本の鎖分銅を握って手を伸ばせば射程距離が倍になります。

④ 敵が逃走しようとしたり遠くに居る場合は、鎖分銅が三方に広がるように投げつけます。敵の首や足に絡み付けて転倒を狙います。

3つの分銅をいかに使いこなすかが、微塵の威力を決定するポイントです。使い方に熟達すれば、犯人にとって非常に厄介な武具となります。

【む】

叢雲の剣 1(ムラクモノツルギイチ)


所有者は蘇我入鹿(そがのいるか)。

○簒奪者と神剣

 ヤマトタケルの愛刀から三種の神器の一つになった天叢雲剣(草薙の剣)は内裏の奥深くに収蔵され、歴代の天皇の即位には欠かせない存在と定められていました。

 その神剣を手中に収め、簒奪に挑んだ一人の男がいました。

 飛鳥時代の朝廷で権勢を振るった、蘇我入鹿(?~645年)です。

 天叢雲剣を奪った云々は歌舞伎『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』における創作ですが、蘇我氏本宗家の長として大臣の座に君臨する父・蝦夷を上回る実力者であり、朝廷の政に深く介入して、天皇の即位さえ左右するほどの実力を有していたのは事実です。

 かの聖徳太子の兄で新天皇の有力候補だった山背大兄王(やましろのおおえのおう、?~643年)とその一族全てを滅ぼし、悪逆ぶりでは人後に落ちない蝦夷さえ嘆いたと伝えられるほどの徹底した姿勢を示して、一権臣の身でありながら絶大な専制権力を振るった入鹿は、まさに古代のわが国のおける最強の簒奪者だったと言っていいでしょう。

 古典芸能に登場する以上、悪徳を極めた人物として描かれるのも当然のことでしょう。
叢雲の剣 2(ムラクモノツルギニ)


○入鹿、その悪の魅力

 明和8年(1771年)1月に大阪竹本座にて初演された同名の浄瑠璃を、同年9月に大阪小川座で歌舞伎化した『妹背山婦女庭訓』は、古代王朝の華麗な風俗を背景とする、熾烈な権力闘争の物語です。

 入鹿の欲望の犠牲となって果てた息子と娘の遺志を汲み取り、長年の対立に終止符を打った妹山・背山の二大豪族の長が蘇我氏討伐を目指す藤原鎌足に協力し、子供たちの仇を討つという物語の中で最大の魅力を放って止まないのは、やはり悪役の入鹿でしょう。本作品に登場する入鹿には、子宝に恵まれなかった蝦夷が白鹿の血を妻に飲ませたところ懐妊した、という出生の秘密が隠されており、常人離れした能力で人心を操る妖人と設定されています。

 それほどの怪人物として造形されているからこそ、圧倒的な権勢を握って悪逆非道に限りを尽くし、登場人物の怒りを一身に集めていても小揺るぎもしない、無双の強さを発揮できるのです。

 入鹿を倒す方法は、ひとつしかありません。

 爪の黒い鹿、そして嫉妬に狂った女からそれぞれ生き血を採って混ぜ合わせたものを注ぎかけた笛を吹き鳴らし、その音を聞かせて身動きが出来なくなったところを狙って斬り付ければ、不死身の肉体をも滅することが可能なのです。白鹿の血の魔力を受け継ぐ妖人を倒すとなれば、これほど奇抜な手続きを踏まなくてはならないのも仕方ありませんが、そう都合よく事は運ぶのでしょうか。
叢雲の剣 3(ムラクモノツルギサン)
○入鹿暗殺異伝

 絶対無敵の入鹿を滅ぼすべく、立ち上がったのが藤原鎌足の息子・淡海です。

 蘇我父子の策略により、天皇の愛妾だった娘(淡海の妹)の妥女の方(うねめのかた)ともども宮中から追われてしまった鎌足には、強大な武力を誇る蘇我一族と正面切って戦う力はありません。そこで淡海は身分を偽って洛中に烏帽子折の店を構え、職人・求女(もとめ)となって宮中に出入りする算段を整えると、入鹿の身辺を探り始めました。

 そこで恋仲となったのが、隣の酒屋の看板娘・お三輪でした。

 ところが求女こと淡海にはもう一人、為さぬ仲の姫君がいました。嫉妬するお三輪でしたが、恋の仇は見るからに高貴な姫です。正面から文句をつけるわけにもいきませんでした。

 蘇我入鹿暗殺の大望を抱く身にしては迂闊過ぎますが、店に忍んできてはいつも夜明け前に帰っていく姫の素性を、淡海は知らないままに付き合っていました。

 ある日、淡海は姫の袖に苧環(おだまき)の糸を結び、そっと後を尾けていきます。さすがは藤原一族の若君、色欲に溺れていても抜かりない淡海でしたが、気付かぬうちに自分も袖に糸を結びつけられ、お三輪に尾行されているとは知る由もありませんでした。恋の一念に燃えた娘は、かくも冷静かつ大胆に行動できるものなのです。

 辿り着いた先は、入鹿の御殿でした。

 姫の正体は入鹿の実の妹・橘姫だったのです。

 淡海が恋人の正体を見抜いたとき、橘姫も相手が兄の命を狙う藤原鎌足の御曹子と察しをつけてしまいます。

 やむなく淡海は刀(古代の話であっても、舞台と衣装は歌舞伎の常として江戸時代風の設定なので剣ではありません)を抜き放ち、入鹿暗殺の秘密を守るために橘姫を斬ろうと振り上げました。

 覚悟を決める橘姫でしたが、刀を止めた淡海は命を助ける代わりに入鹿が奪った三種の神器のひとつである、叢雲の剣を持ち出してほしいと頼み込みます。愛する男のため、橘姫は苦悩した末に引き受けます。
叢雲の剣 4(ムラクモノツルギヨン)


○入鹿暗殺異伝2

 橘姫の許嫁者として御殿に上ることを許された淡海は、さっそく婚礼の儀を整えてもらいます。その隙に橘姫は入鹿の目を盗み、御殿の奥深くに安置された叢雲の剣を持ち出そうという計画でした。

 一方のお三輪は、遅れて辿り着いた御殿で婚礼の準備が進められているのを知り、かつてなく激しい嫉妬を覚えます。

 そこに忽然と現れたのが、淡海に先んじて御殿へ潜り込んでいた漁師の鱶七。実は藤原鎌足の無二の忠臣・金輪五郎でした。刀を抜いた五郎は有無を言わせることなくお三輪を刺し、淡海の正体と目的、そして入鹿を倒すためには嫉妬に狂った女の血が必要と明かします。これでお前は身分の壁を超え、淡海様の奥方になれるのだと告げてやり、五郎は満足して死んでいくお三輪を看取ったのでした。

 その頃、橘姫は叢雲の剣を持ち出そうとしていました。そこに突然現れた入鹿は、裏切り者の妹をあざ笑います。姫が奪った剣は偽物だったのです。

 簒奪者の入鹿にとって、妹を殺すことなどは造作もないのです。

 橘姫が窮地に陥った時、高らかに笛の音が響き渡りました。

 淡海の笛で身動きを封じられた入鹿の手から離れた刹那、神剣は竜の姿に変じました。竜は背山で戦いの準備を進める鎌足の許へ飛来し、元の姿に戻ります。

 叢雲の剣を失ったことで、入鹿は簒奪者の資格を無くしてしまったのです。

 追い詰められながらも果敢に抵抗する入鹿でしたが、叢雲の剣と一緒に淡海が奪還した三種の神器のひとつ・八咫鏡の反射光を浴びせられ、またしても動けなくなったところに鎌足の一刀を見舞われ、首を刎ねられました。神通力を失った妖人の生命はかくして絶たれ、入鹿のいなくなった蘇我一族は崩壊の一途をたどるのでした。

 ちなみに鎌足がこの時用いたのは太刀ではなく鎌で、誕生の際に茶吉尼天(だきにてん)の化身の白狐より与えられたとする、中世に成立した説話『天照大神口決』『春夜神記』の記述に基づく設定です。鎌足の名も神鎌に由来する命名とされています。一代の簒奪者も神威を授かった鎌足の鎌、そして、薄幸の娘・お三輪の生き血なくしては顕現し得なかった笛の音の奇跡の前には、為す術がなかったのです。

【め】

面具(メング)
 大鎧や胴丸は顔面に関しては隙間だらけ、というよりほとんど無防備に近いものだった。そのため室町時代以前にも徐々に防護する装具も現れていたが、完全防備を具体化したのが戦国時代の当世具足だった。

 面具は顔面を矢や刀の切っ先から防護するものである。その種類は、顔の全面、目から下半分、左右の頬から顎、それらに頸部を保護する機能が付属したもの、といった具合に防御部位に合わせたいろいろな形がある。なので、名称も防護する部分(範囲)によって、半首(はつぶり)、半頬(はんぼう、頬当ともいう)、惣面(そうめん)などと呼ばれている。製作は鉄または練革を打ち出して作り、漆を塗ったりして仕上げる。

 なお、面具とは違うが、喉の部分を防護するものに、喉輪と曲輪(ぐるわ)と呼ばれるものがある。喉輪は半首と一緒に用いられた装具。曲輪は南蛮具足に付属するマンチラと同じ形式で、首をぐるりと覆って防護するもの。主に半頬と一緒に使われる。
面具 半頬(メングハンボウ)


 室町時代以後、主に当世具足に付属するものとしていろいろな形のものがつくられた。防御部位は、頬から下顎にかけて。顎下に垂(すが)がついていて、喉を防御するようになっているものもある。
面具 半首(メングハツブリ)


 主として室町時代以前に使われたもの。もっとも古くからあるもので、『平治物語絵巻』『前九年合戦絵詞』などの絵巻物にはしばしば描かれている。防御部位は、顔面上部の額から頬の上まで。鍛鉄製で黒漆塗り。
面具 惣面(メングソウメン)


 頬当が発展し、結果的に半首と一体化したような形式のもの。総面とも書くように、文字通り顔面全体を防護することを目的としたものである。威圧的な演出効果を狙って、金銅の歯や髭を植えたりする場合もある。このように顔面全体をすっぽり覆ってしまう形式は西欧の冑にみられるもので、輸入された南蛮兜の影響を受けてつくられたものと考えられる。

や行

【や】

矢 征矢と上差矢(ヤソヤトウワザシヤ)


 鎌倉時代の合戦には、一騎打ちや口合戦などの一定の様式、ルールのようなものがあった。それと同様に戦場で用いる矢にも、射る敵の身分によって特別な矢を用いるといった決まりがあった。それが「征矢(そや)」と「上差矢(うわざしや)」で、征矢は一般兵士を射る矢であり、上差矢は武将を射る矢とされていた。特に上差矢は鏃も大きく、敵将を射止めたときにその名が分かるように、鏃には射手の生国と名前が刻みこまれていた。
矢 矢の構造と素材(ヤヤノコウゾウトソザイ)


 矢は矢柄(箆=の)、鏃(やじり)、羽根、筈(はず)の4つの部分からできている。弓矢の威力を増すために、矢もさまざまな改良・工夫が行われてきた。まず本体ともいえる矢柄の素材だが、古くから葦や、柳、篠竹などが用いられたが、平安時代中期以降はほとんど篠竹の三年竹が使われるようになる。

 矢の製造は、篠竹を削って火にあぶって曲がりを直し、それを砂で磨く。この段階のものを白箆(しらの)といい、普通はその上に乾湿の変化に備えて漆を塗る。次に先端に鏃を差しこみ、元には弦をつがえる筈の切り込みを入れる。さらに矢の飛行軌道を水平で直線的に調整し、スピードをアップさせるための羽を、糸か樺で巻き留めて完成させる。

 古代の矢の長さは70~90㎝くらいで、素材の篠竹も細いものだった。奈良時代から平安中期にかけては、長さが約70㎝くらい。さらに鎌倉時代になると太く丈夫な篠竹が用いられるようになり、長さも約86㎝前後になる。この時代には鏃も大きくなり、それに伴って重量が増したことで威力は格段にアップした。当時の戦闘用の矢の重量は通常50~70gくらい。

 また、矢柄の形状には3種類あり、最も一般的なのが全体の太さが一定の「一文字」。ほかに矢先が太く羽根の方に行くにしたがって細くなる「杉成」、中央が太く両端に向かって細くなる「麦粒」と呼ばれるものなど。

 矢の長さの測り方は、矢を片手で握った状態を一束(ひとたば)とし、それより短い半端な寸法は指の太さを基準にして一伏(ひとふせ)とする。たとえば、源平時代の弓矢は十二束が標準だったので、握り拳が12個、それより少し長ければ、十二束二伏といった計り方をする。
矢 矢羽(ヤヤバネ)


 矢羽は矢の安定感を調整して水平に直進させる役目を果たすものである。矢羽に使われたのは主に鷲と鷹の羽で、そのほかに鶴、山鳥、鴻などもあった。そのうちでも本式の矢羽とされたのは鷲の羽である。さらに、同じ鷲でも特に最上のものとされたのは尾羽の両端の羽で、極めて強いことから「石打」と称して珍重された。

 古代の矢羽は2枚が主だが、3枚、4枚のものも作られている。近世の矢羽は射術の進歩とともにだいたい三枚羽になる。この場合、同じ向きに沿った羽を組み合わせて取り付けるのが普通で、反った矢羽によって矢が回転し、飛行の安定感を増すと同時に、当たったときの貫通力が高まるわけである。また、その矢羽の反る方向によって、甲矢(はや)と乙矢(おとや)の区別があり、通常2本を一手(ひとて)と呼び軍用には必ずそろえて持つ。これとは別に、目標物を射切る雁又などには、矢を回転させないために逆向きに反った矢羽を組み合わせた四枚羽にしている。

 羽は全体が白いものを雪白、黒は黒つ羽、羽根の下部が白いものを本白(元白)、逆に上部の白いものをつま白、同じパターンの黒の場合はそれぞれ本黒、つま黒、さらに黒白の斑紋様を切斑(きりふ)などと呼ぶ。こうした矢羽は武家のシンボルとして家紋や旗印にもなり、武将や貴族たちは矢に美麗な装飾を施し矢羽の紋様とともに鑑賞用としても珍重した。
鏃 形状と用途(ヤジリケイジョウトヨウト)


 鏃の素材は古くから、竹、石、獣骨、鹿角、銅、鉄など様々なものが用いられた。縄文時代には、石鏃、鹿や猪などの骨角製鏃。銅や鉄の鏃が登場する弥生時代から古墳時代にもまだ石や骨が多く使われ、銅や鉄製は豪族の首長や高貴なものが用いる貴重なものだった。やがて、鉄製が主体となり、平安時代以降はほとんど鉄製になった。

 鏃の形状は、古墳時代から奈良時代の頃には、かなり多様な形状のものがつくられていて、種類は豊富だった。さらに、合成弓が用いられるようになり、弓が戦場で大いに活躍する鎌倉時代になると、鏃の種類はさらに豊富になる。具体的には、戦闘の場面に応じて目標物を破壊する、射切る、貫通させる、衝撃を与える、遠距離を飛ばすなどの目的によって、さまざまな形状のものが考案された。しかも形も平均して巨大になり、たとえば、雁又鏃のなかには又の部分の長さが9㎝を超えるものも現れている。当然重量も増えてそれ以前の時代(例えば縄文時代はだいたい4gくらい)の3倍以上になり、攻撃力が格段に強化されたのである。

 鏃の形状を大別すると3種類ある。一つは、細くて鋭くとがっていて、深く射し貫くことを目的とする軍用の征矢(そや)で、この種類にはその形状から鳥の舌、柳葉、剣尻などの名で呼ばれるものがある。征矢は戦場でもっとも多く使われたものでいわば消耗品だった。次に、Y字形をした雁又は狩猟用に用いられるもので、鳥獣の翼や脚をその開いた又で射切ることを目的としたもの。それだけでなく、戦場では特別な役割も果たした(「鏑矢-かぶらや」参照)。もう一つは、平根などの尖り矢(とがりや=鋒矢)である。この平根もまた特別な鏃で、戦場において身分の高い敵将を射るための上差矢に用いる。見事に射抜いたときに敵にも味方にも勇名が広まるように、鏃に使用者の名前を刻むのが通例だった。
鏃 鏑矢(ヤジリカブラヤ)


 雁又に鏑を取り付けたものを鏑矢(かぶらや)という。鏑というのは木や角を蕪形に加工して、中を空洞にしたものである。さらに鏑には数か所の穴が開けられていて、矢を飛ばすと穴に風が入って甲高い音を発する。鎌倉時代の合戦では、戦闘開始の合図となったのが「矢合せ」である。この矢合せに使用されたのが鏑矢で、いわゆる「嚆矢(こうし)」とはこの鏑矢のことをいう。開戦の合図となる鏑矢の「ブーン」という不気味な響きは、敵にかなりの恐怖感を与え、ときには恐れた敵が退却するということもあったようである。

【ゆ】

弓具 弦巻(ユミグツルマキ)


 弦巻(つるまき)は弦袋とも呼ばれ、予備の弦を携帯するための用具である。籐を用いて扁平な円形のドーナツ状に編んだもので、外側は貝の口のように閉じる。そこに弦を巻き込むのである。戦場絵巻には矢を盛る箙の懸緒につけ、左腰に位置するように携帯する図がしばしば描かれている。
弓具 弽(ユミグユガケ)


 弽(ゆがけ)は弓を射る時、指を裸で弦にかけて引くと傷つける恐れがあるので、保護するためにつける手袋様のものである。革製で弓を引く右手にはめるが、親指以下3本を包む三つ掛け、4本を包む四つ掛けがあり、両手に使う場合もある。
弓具 空穂(ユミグウツボ)


 空穂(うつぼ)は植物の穂に見立てた中が空洞の容器で、背負って携行する。収納する矢数が15本程度の個人携帯用のものから、大量の矢を収納できる大きなものもあり、戦国期に登場して盛んに使われた。ちなみに矢の携帯量は、奈良時代の頃は戦士1人に50本といった定めがあったが、時代が下るにしたがって携帯量は減り、中世には20~30本を普通とした。携帯する量が少なくなった背景には、矢がだんだん大きく重くなったことがその要因としてある。さらに戦国時代には、鏑矢2、征矢22、それに尖矢1の計25本を携帯用のワンセットとするのが普通だった。
弓具 箙(ユミグエビラ)


 武士用の矢の携帯具の一種。箙(えびら)は前時代の胡籙から変化したもので、鎌倉時代以降に用いられるようになったものである。矢を差す箱に頬立(ほうだて)と呼ぶ高い背の部分がついた形で、箱の中に並べた竹の間に矢を差す。通常携帯する矢の数は16本、20本、36本などと決まっていた。
弓具 胡籙(ユミグコロク)


 胡籙(ころく)は奈良時代に盛んに用いられた公家用の携帯具で、「やなぐい」ともよむ。古くは「靱(ゆき)」といった。胡籙には矢を差し立てて持ち運ぶ矢立式の平胡籙と矢全体を筒状の容器にすっぽりと収納する矢筒式の壺胡籙の2種類がある。

 平胡籙は大陸から伝わった形式で、下部が箱になっていて矢配りの細竹が並べてある。普通21本の矢を立て、紐で腰に結び付ける。また、壺胡籙の方は日本固有の形式で、矢は7本差し、紐で腰につける。いずれも平安初期まで使用された。

【よ】

妖刀村正(籠釣瓶) 1(ヨウトウムラマサカゴツルベイチ)


所有者は佐野次郎左衛門。

○伝説の妖刀

 千五村正は、南北朝の動乱に際して南朝方を支えた名家・北畠氏のお膝元である伊勢国(三重県)で3代にわたって栄えた、刀工一門の長です。山城国(京都府南東部)の名工・平安城長吉に学び、師に酷似する出来と世に謳われたとなれば、凡百の刀工であろうはずがありません。伊勢が誇る名工の一人だったと言えるでしょう。

 さて、フィクションに登場する「妖刀」といえば、真っ先に思い浮かぶのが村正でしょう。

 これは、今に始まった現象ではありません。

 本をただせば戦国乱世、それも徳川家康が生まれるよりも遥か以前にまでさかのぼります。

 それでは、村正の妖刀伝説をひも解いてみましょう。
妖刀村正(籠釣瓶) 2(ヨウトウムラマサカゴツルベニ)


○松平一族の悲劇

 家康のルーツである三河国(愛知県東部)の松平一族では、3人が村正の刀によって命を落としています。

 弱肉強食の戦国乱世のことだけに、合戦場で斬られたということならばやむを得ないでしょう。しかし、家康の祖父の清康、そして父の広忠を襲った死は不可解でした。

 清康は尾張へ軍を進めていた天文4年(1535年)に斬殺されました。それも敵陣ではなく夜の陣中において敵と間違われ、家臣の安部弥七郎の手にかかったのです。弥七郎の佩刀は村正でした。

 これだけで事が済めば、偶然で済まされていたかもしれません。ところが14年後の天文18年(1549年)には、弘忠が乱心した近臣の岩松八弥に突如として斬りかかられ、負わされた傷が悪化して死に至っています。このとき八弥が帯びていた脇差もまた、村正の作でした。

 時は過ぎて、天正3年(1575年)、3人目の犠牲者は家康の嫡男であり、後継者として期待されていた信康でした。同盟を結ぶ織田信長が、敵対する武田氏と信康が内通していると疑いをかけてきたため、松平一族の安全を図るため、家康は泣く泣く切腹を命じざるを得なくなりました。

 かくして信康の首を打った介錯役の刀は、図らずも村正でした。

 これほどまでに凶事が重なれば、たとえ家康でならずとも疑心暗鬼になるのは致し方ないところでしょう。天下人となった家康は、世の諸大名に村正の所持を厳しく禁じるに至ったのです。
妖刀村正(籠釣瓶) 3(ヨウトウムラマサカゴツルベサン)


○その切れ味や如何に

 徳川家に祟る妖刀とされてしまったがために、江戸時代に村正の切れ味が表立って試されることは憚れました。

 御様御用首切り役として名高い山田一族の5代目に当たる朝衛門吉睦(あさえもんよしむね)が著した刀剣書『懐宝剣尺』『古今鍛冶備考』にも、村正の名はありません。

 しかし、そもそも村正とは、北畠氏を筆頭とする伊勢国の武家に合戦の武具としての刀、すなわち武用刀を供給する刀工一門の長です。勇敢なことで知られた伊勢の武士たちのために作刀する立場となれば、鈍刀など後世に残すはずがありません。

 古今の創作の世界における村正が、切れ味の鋭さを強調されているのもあながち妖刀のイメージばかりが先行してのことではないのです。
妖刀村正(籠釣瓶) 4(ヨウトウムラマサカゴツルベヨン)
○妖刀に負けた心の弱さが憎い

 創作の題材として村正の妖刀ぶりが遺憾なく発揮されたのが明治21年(1888年)5月に東京千歳座にて初演された、3世河竹新七作『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』です。明治の新時代に作られた世話物の代表作のひとつと言われる本作品では吉原遊郭を舞台に、美貌の花魁に心奪われた哀れな男の破滅が描かれています。

 江戸時代、実際に起こった「吉原百人斬」事件を基に生み出された物語は以下の通りです。

 商用で初めて江戸に出てきた、野州(下野)は佐野の絹問屋・次郎左衛門は吉原へ迷い込み、たまたま花魁道中を見かけます。そこで目に留まったのは兵庫屋の八ツ橋、今が盛りの太夫でした。元は没落した武家の娘だった八ツ橋の高貴な美貌にたちまち心奪われた次郎左衛門は金に糸目をつけずに吉原へ通い続け、ついに身請けをしようとまで思いつめます。顔に醜いあばたの跡があるがために、周囲に劣等感を抱いて生きてきた男が生まれて初めて本気で女性に惚れたのです。一方の八ツ橋も親身になって接してくれる次郎左衛門のことを、憎からず思っていました。

 そこに割り込んできたのが、釣鐘の権八という悪党でした。かつて権八は八ツ橋の実家に中間奉公をしており、身売りの際に親代わりとして身許保証人を引き受けた男です。立場を悪用し、身請け話の間に入って割り前をせしめようと目論んだ権八でしたが、次郎左衛門に吉原通いの世話をする引手茶屋・立花屋の主人の長兵衛は金目当ての企みを見抜き、権八を追い払います。

 しかし権八はあきらめずに、八ツ橋が身を売る前に二世を誓った浪人の繁山栄之丞をそそのかします。相思相愛のはずの彼女が田舎者のお大尽に心を移したと思い込まされた栄之丞は怒り狂い、吉原に乗りこんできて八ツ橋をなじります。間の悪いことに、次郎左衛門は商売仲間を引き連れて登楼していました。かくして、八ツ橋は満座の中で、次郎左衛門に愛想尽かしを告げざるを得なくなってしまいました。やはり、本命の恋人である栄之丞への想いには勝てなかったのです。
妖刀村正(籠釣瓶) 5(ヨウトウムラマサカゴツルベゴ)


○妖刀に負けた心の弱さが憎い 2

 大恥をかかされた次郎左衛門が悄然と野州へ戻ってから、早くも数カ月が過ぎ去りました。

 吉原に再び現れた時、次郎左衛門は一振りの刀を掲げていました。それはかつて父の次郎兵衛が所持していた妖刀・村正(籠釣瓶)でした。

 嫉妬と劣等感ゆえに己を見失った次郎左衛門は八ツ橋を、権八を、栄之丞を、さらには無関係の人々までも見境なく斬ってまわりました。それは己が心の弱さゆえに、血を求める妖刀の魔力に負けてしまった一人の男が自ら招いた、破滅の瞬間でした。
寄棒(ヨリボウ)
○構造と用途

 寄棒は捕物に用いる棒の正式な呼び名で、奉行所、辻番所、自身番所、代官所などに必ず備え付けられていた。

 長さはだいたいが六尺棒と呼ばれるもので、太さが3cmくらい。材料は樫の丸棒で、汚れなどが目立たないように、全体を漆で塗ったり、柿渋を塗ったりしていた。黒っぽい色つやを出すことで、多少いかめしく見えるような効果もあったという。棒は相手の動きを封じ、攻撃力を弱め、しかも多少強く殴りつけてもたんこぶができるくらいで大きなけがは負わせず、捕縛や警固の道具としては最適なものであった。だから、捕具に限らず関所の警固、武家屋敷や城の御門番、足軽などが持つ警備用としても、この寄棒がよく使われた。

 普通奉行所や番所に備え付けられている捕物道具は、原則として許可なく勝手に使うことができない決まりになっていた。しかし、この寄棒は今日の警官の警棒と同じような感覚で、何か事件が起きれば辻番所の番人がこれをもって駆け付けるといったふうに、最も日常的で手軽に用いられる捕具であった。

 寄棒を用いた捕物の方法に、「棒ずくめ」というのがある。槍で敵を包囲する戦術を「槍ぶすま」というが、基本的にはそれと同じである。棒を構えて取り囲み、じりじりと包囲を縮めながら犯人が振り回している武器をたたき落とし、取り押さえるというもの。

ら行

【り】

竜吒(リュウタ)


 長柄武器の熊手の別名で、「竜吒」の呼び名は中国の空想の動物である竜の爪をイメージさせるところからついたものである。中国にやはり竜吒の一種で、鈎爪を用いた「飛爪(ひそう)」という武器がある。これは鈎爪に鎖や紐をつけたもので、日本では鎖竜吒と呼ばれる武器であって、長柄仕寄具の竜吒とは別。

 仕寄具の竜吒は4~5m程の長い棒の先に、通常爪が3本か4本付いた鉄製の爪を取り付けたものである。爪のつけ方は、同じ方向で長さが同じ物または段違いのもの、碇のようにそれぞれ方向を違えたものなどがある。また、柄の先端部分には薄い鉄板を巻いたりして、刀で斬り折られないように強化処置を施してある。竜吒の利点は、軽量で長い柄を生かして遠くから獲物を引っ掛けられる点にある。だから、捕物のときには高いところに逃れようとする犯人を爪で引っ掛けて引き落としたり、刀を振り回す犯人の着衣や手足を引っ掛けて引き倒すことができる。

 なお、鎖竜吒の使い方としては鎖の先についた鈎爪を振り回して勢いをつけ、相手に投げつけて鈎で引っ掛け、引き倒すか鎖を巻きつけるかして相手の動きを封じる。

わ行

【わ】

脇差 形状と用法(ワキザシケイジョウトヨウホウ)


 脇差は打刀の一種で、室町時代末期以降に流行した刀剣である。形状は、鎬造で、刀身の長さは30㎝以上、60㎝以下がその基準。そのうち最も一般的なのは長さ56㎝前後の長脇差と呼ばれるもので、約30~40㎝の短いものは小脇差と呼んで区別する。

 「脇指」とも書き、要するに打刀と同じ形式で長さの短い刀剣のことである。室町時代末期以降、打刀が流行すると武士の間に刀身の長いものと短いもの2本を、腰に差す習慣が生まれた。やがて江戸時代になると二本差が武士の正装となり、通常2本のそろいを「大小」といい、大は刀、小を脇差と呼ぶようになった。ほかに脇刀(わきがたな)という呼び方もある。

 太刀に短い刀剣を添える様式は、鎌倉時代から始まっているが、それ以降、時代によって小太刀(こだち)、馬手差(めてさし)といったものも登場した。いずれにしても、そもそもの発生は太刀や打刀などの主武器に対する、補助的な武器であったということである。ただし、それが江戸時代になると脇指は独自な役割を発揮するようになった。

 脇指は今風にいえば”軽薄短小”と言った感じで、重量も軽く携帯にも便利であり、江戸時代には武士以外にも、町人や渡世人たちが旅をするときの護身用の道中差としてもよく用いられていた。それだけに江戸時代には最もポピュラーな刀であった。
脇差 歴史と詳細(ワキザシレキシトショウサイ)
 刀剣の歴史では鎌倉時代に、後世の脇差と同じ用途を持った短い刀剣である小太刀、腰刀が登場するが、いずれも太刀の差添に用いたもので、腰刀は短刀の形式として発達した。ところで、差添というのはどういうふうに差していたかというと、普通は袴の紐に差し、戦場では太刀を佩いてその佩緒か鎧の総締の尾に差したものである。そうした様式が打刀にも踏襲され、太刀の差添、つまり脇差として短い打刀が用いられるようになった。

 室町時代末期以降の打刀の流行は、剣法の飛躍的進歩と軌を一にしたもので、江戸時代になると武士の主武器はほとんど打刀になる。同時に、二本差の習慣も定着し、脇差の地位も高まった。この大小二刀を差すという習慣が剣術に与えた影響としては、宮本武蔵の有名な二刀流がある。ここで言う二刀とは文字通り太刀と脇差のことである。実際『五輪書』にも、二刀を帯びるのは武士の道であるから、戦うときに一刀を腰に納めたまま討たれでもしたら不本意である。だから両方を十分に生かすことが大事だ、というようなことを述べている。特に脇差については狭いところでも自在に使える有利さを説いている。史実としては、武蔵が二刀を使って戦ったことはなかったが、少なくとも武蔵が「二刀を差すのは武士の道」というあたりから独自の剣法を考案したことは確かである。